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潮流
 エナタンの新作が刊行されたのは、半年後だった。
 爆発的な売れ行きを見せたその『LIGHT GATE』だったが、その売れ行きと反比例するようにエナタンは世間から姿を消した。
 ニューヨークのコウモリの館から、コウモリの主人は消えた。

 タイのその小さな島は、定期便もなく、住民もほとんどいなかった。
 船をつける浜がなく、岩壁にぐるりと囲まれたその島は、手漕ぎの小さなカヌーでなければ上陸できないからだ。
 エナタンはひとり、その島に息づいていた。
 まるで掘建て小屋のようなロッジのテラスで、本を被って昼寝をしていた。
 その本を剥ぎ取る者がいた。
「・・ヨキ。」
 まぶしそうに顔をしかめてエナタンは何ヶ月振りかの盟友の顔を拝んだ。
「いつまでバカンスをしているつもりだ?」
 起き上がって苦笑した。
「そんな洒落たものじゃない。逃避行だ。」
「何から?」
「自分のエゴから。」
「なんだって?」
「ほとぼりが冷めないと人に持ち上げられてうっかり勘違いする。」
「傲慢から逃げているのか?」
 エナタンはニヤリと笑った。
「そうだ。」
「シナリオが解かれても、そうしなければ自分の業に捕まるのか?」
「それがここに生きるってことだ。いつでもそいつは足をすくえる。そのことに終わりはない・・いや、あるんだが・・今はないんだ。これはホロンの言い草だな。闇をあなどらなくなった分、前よりましだろう。」
「前より愉快そうでもあるな。」
 少しあきれたようにヨキは笑った。
「なんの用だ?」
「いや。バカンスだ。」
 エナタンは面白そうに笑った。
「もっと他に行くところがありそうなもんだろう?」
「あの本を読んで他への興味が削がれた。あんたと星でも眺めながら話がしたくなったのさ。」

 それこそ降るような星を浴びながら、エナタンとヨキは乾杯した。
「聞きたかったことがある。」
「なんだ。」
「ホロンが野獣のような女を止めることが出来て、第3の門で食い殺されなかったのはなぜだ?」
「きみに聞かれるとはな。」
 エナタンは面白そうに笑った。
「オレはホロンだとしてもホロンじゃない。ヨキだ。エナタンがルシファーであることを忘れていたように。」
「そのことをホロンは違う言葉で幾度も言っていたことが、第12の門を超えた時わかったよ。」
「・・。」
「ホロンはすべてが光そのものであることを知っていた。だからその影である闇に食われることはなかった。闇も光も真実だが、闇ばかりを大きく信じる者には闇は真実に働く。」
「では世界が向かっているのは・・。」
「第12の門の向こうだ。」
「潮流はそっちへ向かっていると?」
 エナタンはかすかに微笑んだ。
「オレはまだ闇をあなどってはいない。だが、向かっていることは確かだ。たとえ逆らっても逆らえおおせるものではない。」
 ヨキは頬を緩ませてグラスを掲げた。
「乾杯。」
「乾杯。」
 その時、赤い風が吹いた。
 ヨキはその風を目で追って、その行き先に目を止めた。
「金星だ。」
 そして、いたずらっぽくエナタンに告げた。
「今、見えた。竜が駆けたな。」
 エナタンはうなずいて笑むとグラスを空けた。
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フェイ
 エナタンがようやくコウモリの元へもどったのは、『LIGHT GATE』の出版から1年を過ぎた頃だった。
 懐かしき我が家への道を辿って車を走らせていて、突然エナタンは急ブレーキを踏んだ。
 同じ様に対向車が急ブレーキを踏んで止まった。
 ドアを開けて降り立ったエナタンと同じように車の向こうに姿を見せたのは、フェイだった。
 ふたりはしばらく沈黙したまま、見つめあった。
 口を開いたのはフェイだった。
「お帰りなさい。コウモリさん。」
 エナタンは苦笑してフェイに近づいた。
「どうしたんだ?こんなところで。」
 フェイは静かに笑みを浮かべると、親指で自分の後ろを指差しながら言った。
「Uターンするわ。先に行って。」
 フェイはコウモリの館に着くと快活に笑った。
「オレの家に来たのか?オレが今日帰って来ることは誰も知らないのに。」
「わたしも知らなかった。」
 家は少し湿っぽかったが、月に1度はハウスキーパーを入れていたのでつい最近出掛けたようにエナタンを迎えた。
 エナタンは気軽にフェイに紅茶を入れた。
 フェイは可笑しそうに肩をすくめた。
「ほんとだ。」
「何が?」
「あなたじゃないみたい。」
「どういうことだ?」
「あなたがわたしにお茶を入れてくれた事なんて1度もないわ。」
「そうだったか?」
 フェイは紅茶に口をつけながらうなずいた。
「どうして来たんだ?カイルは元気か?」
 フェイは窓の外を見るふりをして黙った。
「結婚したんだろう?しあわせか?」
「・・別れたの。」
 エナタンは自分の分の紅茶をつぐ手を止めた。
「どうして・・?」
 エナタンは口にしながら自分の胸が痛んでくるのを感じていた。
 フェイの顔から笑顔が消えて肩がかすかに硬直しているのが分かった。
 窓の外を向いたフェイの瞳から、涙がこぼれ落ちたのをエナタンはガラスに映ったフェイの顔で知った。
「・・わたしは・・人を愛することなんて所詮できないのよ。」
「何言うんだ!きみほどオレを愛してくれた人はいない!」
 エナタンは思わずフェイを自分の方に向かせた。
 フェイが持っていた紅茶がこぼれて、フェイの白いセーターを汚した。
「あっ、すまない・・。」
「ヨキが言ってた。エナタンは変わったって。ほんとなのね。」
 意識がもどってからエナタンはフェイに会っていなかった。
 フェイは初めて会うような瞳でエナタンをあらためて見ていた。
 フェイがかつて知る底深く暗い瞳はそこにはなかった。
 エナタンは黙って2階に行き、服を手にしてフェイの元にもどってきた。
「きみのセーターだ。これだけは捨てられなかった。着替えるといい。」
「ありがとう。」

 レモンイエローのそのセーターはフェイによく似合った。
 それを着て、フェイはリビングのソファーに腰を降ろした。
「話したくなければ話さなくてもいい。」
 エナタンはそう言ってフェイの向かいに座った。
 フェイは首を振った。
「わたしはカイルがまぶしかった。彼は完璧だった。彼が愛してくれるなら、わたしはしあわせになれるはずだと思ったわ。でも・・そうじゃなかった。」
「カイルに何か問題でもあったのか?」
「いいえ。そうじゃないの。わたしに問題があったの。」
 エナタンは絶句した。
「まさか。きみはカイルとお似合いだ。カイルもきみも光り輝いていた。これ以上ない組み合わせだ。」
「エナタン。そんな光り輝くカイルをわたしは愛せなかったの。自分にうそはつけなかった。カイルといても、景色は輝かなかった。むしろ、何かが違っていると思えてこころが沈んでいったわ。」
 エナタンはフェイの哀しみを理解した。それはかつての自分ではなかったか?
「そして、あなたがいないと頭で分かっていても、思わずここに来てしまったの。そして今分かったわ。」
 フェイは泣き笑いしながら言った。
「わたしが愛してるのはあなたなのよ。あなたとの日々、わたしは生きてた。理屈なんかじゃない。もしもあなたがわたしを愛さないとしても、あなたを愛することがきっとわたしの生きている証。」
 エナタンはフェイを抱き締めた。
「神よ。」
 つぶやかずにはおれなかった。
(感謝します・・。もう一度チャンスをくださるのですね。)
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新たな一歩
 ヨキが上等のシャンパンを手にしてやってきた。
 美しい昼下がりだった。
 エナタンがフェイと暮らし始めて半月が経っていた。
「驚いたような、分かっていたような、だな。『LIGHT GATE』にはフェイのことは書かれていないがどうせ因縁でもあるんだろう?」
 エナタンは含み笑いをした。
「ああ、ホロンとミカエルのことしか書いていないが、フェイとアレクにも会っている。」
「アレクなんだが、言ってなかったが降格になった。売り上げが落ち続けていたからな。きみがビルから落ちた直後だ。今は地味な工業情報紙の副編集長をしている。だからあんなにあせっていたんだろう。さぞや不平・不満を言ってるだろうな。あの後、きみのヒットでボーダー社は持ち直したが。」
 エナタンは黙って、そしてそっとつぶやいた。
「悪かったのはオレだ。思い上がっていた。アレクにも謝りたい。あの人はオレにほんとのことを教えてくれた。人を見下すな、と。それがオレの弱点だったんだ。オレは忘れない。そして、そこから歩き出すことはいつだってできるんだ。ほんとうは門はいつでも開かれている。」
 シャンパンをつぎながら、ヨキはフェイの方を見てくすりと笑った。
「オレたちはエナタンの闇だけを愛していたんじゃない。その闇の向こうに、光があることを、きっと予感していたんだろうな。」

 エナタンはフェイという伴侶を得たことで、もう1歩踏み出すことにした。
 本だけではなく、自ら講演を引き受けるようになったのだ。
 それはエナタンにとって、大きな挑戦だった。多くの人の前に自分をさらすことは、最も傲慢の罠に陥りやすい。だからこそ1年もの間、タイに引き蘢ったのだ。
 だが、それを超えることはエナタンに課せられた使命でもあった。
 エナタンはフェイとともに世界各地を回った。話す前にはフェイの手を取って天に向かって祈った。
「どうか、この我が身が自らの傲慢の餌食とならぬようお守りください。」

 色々な人々に出会った。
 たくさんの痛みを抱え、苦しみを抱えながらかろうじて生きてゆく人々に。
 エナタンの今までの苦しみが大きかったがゆえに、エナタンは人々のそれを身を持って理解した。
 質疑応答の時間は、講演の時間と同等程度とられた。
 初めはエナタンはとまどい、返答に時間のかかることもあった。それでも誠実に時間をかけて答えることで、聴衆はそれを受け入れていった。
 ある講演先でのことだった。
 エナタンはそこで1番前の席に、見覚えのある女性が座っているのに気づいた。
 ここ何回か、エナタンの講演をいつも最前列で聞いていた女性だった。だが熱心に聞きに来る割にはいつも楽しそうではなく、エナタンの目を引いていた。
 その女性が、初めて質問した。
「あなたは世界が12番目の門の向こうへ向かっているとおっしゃいますが、そんな実感は全然ありません。世界は絶望と恐怖に覆われている。人々にその実感がなければそれはただの空想か、よくて理想論でしょう。」
 エナタンは大きく息を吸ってゆっくりと吐き、水を飲んだ。
 そして、訥々と答え出した。
「あなたがやっと質問してくださった。それがまず第1番目の光です。わたしは今、それを待っていたことに気づきました。ありがとう。」
 エナタンは女性に少し笑ってみせた。
「世界が絶望と恐怖に覆われている。それは事実です。このことに反論なさる方はいらっしゃいますか?」
 ぱらぱらと手が上がった。
 エナタンは微笑んだ。
「そう思っていない方も中にはいらっしゃる。それも事実です。」
 会場から小さな笑いがもれた。
 エナタンは再び女性を見た。
「『LIGHT GATE』に書かせてもらったホロンの言葉を引用しましょう。[闇だけがあると思うのか?ありありと在るものは幻でもある。]闇は闇ばかりを大きく信じる者にとっては真実に大きく働きます。」
 表情の変わらない女性を見て、エナタンは言葉を区切った。
「失礼。熱心なあなたならこれはすでに読まれている。では、あなたにお聞きしましょう。あなたが望まれているのはいったいなんでしょう?」
 女性はしぶしぶ立ち上がって答えた。
「そりゃ、絶望と恐怖のない世界です。生きていることに喜びを感じる世界です。」
 エナタンはそのシンプルな言葉に打たれてうなずいて返した。
「誰もがそれを望むでしょう。だがここにはそれはない。」
 女性が困惑した表情を浮かべ、会場がさざめいた。
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いのちのありか
「なぜなら、絶望と恐怖を求めてわたしたちはここへと生まれたからです。」
「どういうことですか?」
エナタンは自分が言った言葉に苦笑しながら続けた。
「もちろんそれだけではありませんが。あなたのいう生きる喜びもあります。ですがここ、地上に生まれるということは、あなたの望まないそれすらも望むということなのです。」
「さっぱりわかりません。」
 女性は少し腹立し気にエナタンに向かって言葉を投げつけた。
「絶望することによって希望を知るためです。恐怖を味わうことによって、平安を知るためです。」
 エナタンは会場の人々すべてに向き直り、さらに続けた。
「全き円は在りて在るものなので、すべてを含みすべてに通じすべてが解決済みです。それをあえて陰と陽のふたつに分けて鏡のような構造を造り、自らがなんであるかを別の知り方で知ろうとした好奇心に満ちた営みのひとつがこの地上です。」
 もう一度女性の方を向いて問うた。
「あなたがすべてに満たされてあらゆる幸福を享受しているとしましょう。その次にあなたは何をしたいと思いますか?」
「そのままでいいです。」
 エナタンは笑顔を浮かべた。
「実はけっしてそうはならない。」
 女性はけげんな顔をした。
「あなたが今、平安と幸福を心底希求しているように、幸福の側に立てば今度はそうでないものを探し始めます。それが、二極というからくりです。振り子のようにそれは振れ続ける脈動を繰り返します。この宇宙の拍動といってもいい。」
「拍動?」
 つぶやいた女性にエナタンはほんの少し黙って、そして言った。
「すでにあるものに魅力を感じないのです。たとえそれがどんなに素晴らしいものでも。いつも未知のものを求め続けていく。それこそが進化ではないですか?生命は進化をはらむものです。」
 女性は黙った。
 男性が手を挙げた。
「しかし、進化というのはいい方にいくことをいうのではないですか?どうもいい方とは思えない方にいっている感もある。」
「変わる時のプロセスにおいて、膿が出ることもあります。脱皮には一時的つらさを伴うこともあります。それは一見後退しているようで、実は進んでいるともいえる。同じところを回っているようでもその段階はらせんのように上がっている。肝心なことは・・。」
 会場はしんとなった。
 しばらく沈黙が続いた。
「痛みをちゃんと感じるということは、その人がそこに生命をほんとうの意味で発現し、人類共通のそれを癒しているということなのです。」
 エナタンの瞳は深い色を見せた。
「その時、誰のせいにも何のせいにもしない強さと明るさがその痛みの底に眠っていますが、多くはそこまで辿り着く前に痛みから目を逸らし、何かのせいにします。でも、ほんとうはその痛みの底こそがいのちの真のありかなのです。」
 語ることに深みからの息吹きを込めながら、エナタンは続けた。
「わたしはそこから目を逸らし続けてきた。そのせいで多くの人を傷つけてきた。だが、ホロンの深い愛情に支えられてそれと向き合った時に、わたしは初めてこの手の指の先までゆき渡る真のいのちのエネルギーを感じました。パワフルでした。それまではわたしには手はあってもそれを感じることはなかった。わたしには目はあっても何も見てはいなかった・・・。それがMAN(人)の真実です。ほんとうに大事なのは自分が抱える痛みと向き合うことだった。そうした時、はじめて人の痛みにも触れることもできるのです。そうなると、この世の争いはどうなるのでしょう?」 
 エナタンは黙ってしまった女性の顔を見つめて言った。
「あなたの痛みの底にこそ、あなたのパワーの源があり、そしてそれこそがあなたをあなたの望む喜びへと連れていってくれます。痛みを通してでなければより深く、より濃い喜びと出会えない構造になっているのです。それはあなたが表面上望んでいる平安を通してではありません。」
 別の男性が手を挙げた。
「どうしてそういうことに?神の御業ということですか?」
 エナタンはうなずいた。
「それは自分たちで決めたことでもあります。なぜなら第12の門の向こうはすべてが分離していないのですから。闇であるルシファーさえも。」
 そう言ってエナタンは少し気恥ずかしそうに笑って肩をすくめ、演壇を降りた。

 控え室への廊下をフェイと歩きながら、後ろに足音を感じて振り返った。
 あの女性だった。
「どうかしましたか?」
「その・・うまく言えません。ただ、もしかしたらわたしが感じている恐怖と絶望は、わたしが望んでいる世界への入り口だということなのかと思って・・。」
 エナタンはうなずいて手を伸ばした。
 女性はおずおずと手を伸ばしてエナタンと握手すると名乗った。
「アイリーン・キャラウエイといいます。まだ、どういうことなのかは腑に落ちていないのかもしれないけれど、絶望には意味があるということだけはわかりました。」
 アイリーンが去って、エナタンはフェイと笑みを交わした。
「1000人の内のひとりでも、何かが伝わればいいな。特に絶望している人に。」

 だが、それはひとりに留まらなかった。
 共感する人々も、反発する人々もどちらもたくさんの反響を寄せた。
 共感する人々の中にも様々な人がいた。自分の痛みを真摯に見たうえでの共感と、それは見ないで『美しい話』や『理想論』として他人事のように共感する人々と。
 反発する人々は、自らの痛みを見ることに無意識に恐れを抱く人々だった。その恐れをエナタンに投影してエナタンを悪者として片付けて安心したいという切ない人々だった。
 もちろんそのことをエナタンは覚悟して人前に出たのだった。ルシファーとして。
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MAN(人)
 ヨキが来た。
 編集部に届く手紙の一部を持ってやって来た。
「きみが投げた石からダイナミックな波紋が広がってる。これを本にしたらどうかと思うんだが、どう思う?」
 エナタンは可笑しそうに笑ってすぐにうなずいた。
「まったく。オレが思うことを同時に言うやつだな。見せてくれ。」
 そこには様々ないのちの叫びが綴られていた。エナタンを攻撃する人々すら、その叫びは痛々しくも切なく愛らしいものだった。
 エナタンはそのどれもが、12番目の門の向こうでは抱きとられることを知っていた。
 あそこでは『攻撃』は『攻撃』ではなく、ただ愛されたいという叫びでしかなかった。そしてそこでは無条件に満たされるので『攻撃』そのものの意味が失われ、霧散するのだった。
 一切のコメントを省き、ただその叫びのみが本として世界に還元された。
 読者はそこに、少なくともひとつは自分によく似た声があることを発見することとなった。

 その本が出てからの講演先でのことだった。
 ひとりの若者がエナタンにくってかかった。
「あなたは痛みを見ろというけれど、ほんとうにつらい想いをした人に対してそんなことが言えるのか?それはその人の痛みに対して失礼だし、あなたはほんとうに深い痛みを知らないからそんなことが言えるんだ。」
 エナタンはその質問が出ることを予期していた。
 そっと、口にした。
「痛みを見るというのは、自分を責めさいなむことでもないし、自分を憐れむことでもありません。何のせいにもしないというのは、強くあれということではありません。神を信じられるならいい。だが、痛みの現場に神がいないと信じている人はごまんといます。わたしもそうでした。どこにも行き場のない想いを自分の最高の理解者である自分こそがまず受け止めないで、道は開けるでしょうか?受け止められたことのない痛みは違う形で暴れます。自分の痛みを感じることを許さないのだから、ひとの痛みをも感じないようにもします。それはほんとうのその人でしょうか?これはほんとうの自分に出会うことから逃げないということで、真摯なものです。」
 エナタンはその若者が背負っている痛みを感じながら続けた。
「なんの落ち度もなく深く傷つけられた人がいて、どうみても加害者がいて。それでもその加害者に憎しみをぶつけることだけでは癒されないのです。報復することによって癒されると多くの人は思います。だが・・それはまだ表面の段階なのです。いのちの本質が回復するのは、その、自分ではどうしようもない痛みと感情に自分が向き合う瞬間なのです。その時、どこでもない“そこ”にいる時、驚くべきことに完全な円を描いたMAN(人)として“ここ”に存在する。その瞬間すべての門を突破している。崇高な姿です。それはおわかりのように第12の門の向こうの領域です。」
 少し間を置いて続けた。
「人は完璧にあることが完璧な円だと思っています。それは誤解です。実は、地上では完璧でないことをこれ以上なく感じているその時こそが完全な円を描くのです。その人がそういう存在としてそこに在る時、その人は自分ばかりか世界の傷を癒すことになる。・・ここが大きなところなのです。これはその本人には自覚はないかもしれません。だが、それは世界に起こっている実際のことなのです。それだけの可能性のある器だからこそ、その人はそれを経験する。そうでない人にそのような偶然は起きません。その人は被害者という虐げられた人ではありません。むしろ使命を負ったヒーラーなのです。」
「そんなのは高みに立った言い方だ!あなたは傲慢だ。」
 若者の目に怒りが収まらないのを受け止めながら、エナタンは続けた。
「もちろん、人の想像も及ばぬほどの深い痛みが間違いなくあります。それでもわたしはその人の人生は肯定されたものだということをどうしても伝えたくて言うしかないのです。」
 若者はなおも食い下がった。
「あなたは加害者の都合のいい説をぶちあげている。それでは加害者はなんの自責の念も感じることもなく、やりたい放題でしょう!」
「なんの反省の念もないように見える人が、ほんとうに苦しんではいないと思われますか?」
「そうです!」
「あなたは幸いなことに今は加害者にならずに済んでいます。それはほんとうに奇跡のような幸いなことなのです。」
「話を逸らすな!」
「いいえ。これは大事なことです。人間が過ちを犯してしまうことから目を逸らしては、被害者もわたしたちもほんとうには救われない。」
 若者が首を振って荒い息のまま座ったのをしばらく静かに見つめていたエナタンは、初めよりもさらにそっと語った。
「こちらから見れば憎々し気にせせら笑っているように見える犯罪者は、夜になり、ひとりになると情緒不安定になり、無意識にさいなまれています。イライラと暴れ、悪態をつくのもその証拠です。まったくそう見えないような人間も、自分のやったことの大きさを見るのがつらすぎて目を逸らしてごまかして笑っているだけです。だが、自分がしたことから逃げることは誰ひとり不可能です。そう、人や法律から逃げることは出来ても、自分から逃げることは不可能なのです。誰もが実はそのことを知っています。けれども、加害者は被害者に自分の業を預けました。自分が背負うべきことを人に頼ったのです。だが・・。」
 エナタンは自分の中の深い痛みに触れながら、懺悔をこめて語った。
「すべての業を自分だけで背負っている人物は残念ながらここにはいません。」
 エナタンは若者の痛みに共感を持って見つめ、そして言った。
「あなたはもしかしたら自分はそんな犯罪者とは違う、と思っておられるかもしれません。ですが・・」
 少し言葉を切って、申し訳なさそうに付け加えた。
「あなたは犯罪の加害者に自分の業を預けていることからは目をつぶっています。」
 若者は椅子を蹴って退場した。
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深い対面
 エナタンは彼の姿が見えなくなるまで見送って、それから会場の人々に向き合った。
「わたしもその業に囚われている者です。ですが、ハリをまとったネズミがひとを傷つける自分のハリに気づきながら、ハリをたたんでそっと手を伸ばし、ひとと手を交わす道もきっとあると思うのです。」
「今、彼を傷つけたのでは?」
 おだやかな人のよさそうな老婦人が心配そうにエナタンに告げた。
 エナタンは黙って、自分の痛みを抱えた。
 髭をたくわえた恰幅のいい紳士が替わりに答えた。
「いや。傷ついたのは彼の中のわだかまりだ。自分では腹を立てて席を立ったと思っているだろうがね。自分の中の痛みを見るのがつらくて彼はここから立ち去った。だが、そこから永遠に逃げるわけにもいかないんだ。逃げればまた再び同じ舞台に立つだろう。ソダーバーグ氏は痛みを感じないで言ったわけではなかった。そうだろう?自分のこととして言ってるんだ。だが、そういうわたしも出て行った彼と同じ業を持つさ。ひとのせいにして腹を立てて恨んでも来たし、人を傷つける者を単純に蔑んでも来た。それは自分の業から十分逃げ回ってきたってことだな。」
 エナタンは紳士の言葉に感謝のまなざしを向けた。
「お聞きしましょう。みなさんはどう思われますか?」
 後ろの方で手が挙がった。
 エナタンは少し驚いた。アイリーンだった。
 アイリーンはまるで気配を消すように一番後ろに座っていたのだった。
「わたしはずっとわからなかったことがありました。それは、痛みを見つめることでひどく落ち込んでしまいなんの進展もなかったからです。でも、今日のお話で初めて痛みを見ることが自分を責めさいなむことでないと知りました。もう少しそこのところが知りたいのですが。」
 エナタンは一番前できつい表情をしていたアイリーンが以前と違って深い味わいと緩やかさをその表情ににじませてきていることにふつふつと湧き上がる喜びを感じた。
(彼女は扉を開き、歩み出そうとしている。ホロン、キミが感じる喜びというのはこのことだな。)
 うなずくと話し出した。
「痛みを見る時に責めさいなむなら、とてもつらくて耐え切れないでしょう。実はその責めさいなむというのも形を変えたエゴであり、業なのです。そうすることによって前に進むことを阻むものです。」
 エナタンは息をついた。
「ごまかさずに見るというのは、それをないことにしないということとともに、それを見ることによって罰を受けるのではないということを確認しておく必要がありますね。」
 ちょっと切って続けた。
「・・つまり、元々原罪意識というのは何をしようとしなかろうとあります。それはむやみに地から足を離すことのなきよう、はめて降りた足枷ではありますが、それを逆に免罪符にしてそれに囚われないでください。進化することが大命題なのですから。原罪意識は必要なものです。それは謙虚さと対になっています。でも、静かに痛みを見ることによって湧きあがる本来のパワーに耳を澄ます瞬間もあってほしいのです。静かでなければそれは感じられません。泣き尽くしても喚いてもいい。だが踏み止まり、その後に現れる静けさの中で目を開いたままでいてください。何のせいにもしないで中立に立ち尽くしていると、微かに立ちのぼってくるものがあります。その満ち満ちて来るものを素直に全身で受け取って。それが生命力です。祝福された力です。すぐには出会えなくてもあきらめないで。ぜひ、それを味わってください。それはただ、単純にうれしいということなど超えたもっと深い対面です。」

 エナタンはフェイの運転で会場を後にしながら大きくため息をついた。
「紳士も言っていたが、彼はオレだ。」
 フェイが答えた。
「会場を出ていった彼?」
「ああ。彼の気持ちは痛いほど分かった。分かりながらも言わずにおれなかった。」
「分かるわ。」
 フェイは前を向いたまま深い共感を持ってうなずいた。
「そりゃそうだ。きみはそれをオレにしてきたんだからな。」
 エナタンは気がついて、苦笑した。
 フェイの頬に手を伸ばして言った。
「ありがとう。」
 フェイは微笑んだ。
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底知れぬ空洞
 数日もしないうちにエナタンは送られてきた手紙の中に、印象的なものを見つけた。
 それは、刑務所の中から送られていた。
 人を殺したある犯罪者の手紙だった。
「差し入れによって読んだが、俺にはよくわからなかった。俺は人を殺したことを後悔していない。俺は生まれてから満たされたことはなかった。普通のやつらが憎かった。俺の中の底知れぬ空洞が満たされることはない。やつらはこんな想いを知ることもなくしあわせそうにぬくぬく生きている。それは犯罪ではないのか?どうして俺だけがこんな想いをしなくちゃならない?やつらにこんな想いを味わわせて何が悪い?世界など滅亡すればいい。」
 エナタンはまるでそこにルシファーである自分を見るようなひりひりとする想いに苛まれながら返事を書いた。
「わたしも人を殺そうとしたから、あなたのその想いはよくわかります。たとえ後悔はしていなくとも、いまだに満たされていない想いを抱いているのもよくわかります。だが、なんの孤独もないようにふるまっている人々に、その底知れぬ空洞はほんとうにないのでしょうか?それはあなたひとりのものではない。人類共通の孤独の深淵です。あなたは自分のそれを抹殺したかったのでしょうが、それを果たすことは出来たでしょうか?何人何百人殺してもそれは満たされることはありません。あなたが満たされる道は他にあるというのに。」
 それからしばらく音沙汰はなかった。
 もうずいぶん経って忘れた頃に、見覚えのある筆跡を見てエナタンはそれを開封した。
「あんたの手紙は破いた。しばらくうなされ、俺は壁に頭を打ちつけて5針縫った。3日前に刑が確定した。1週間後には刑は執行されるだろう。破いてもあんたの手紙は覚えている。満たされる道などあるのか?」
 エナタンはすぐさまその刑務所を調べ、そこへ向かった。
 優秀な秘書であるフェイはどこでつてを見つけてきたのかその死刑囚に会う手筈を整えた。
 面会室に通された。
 すぐにその男、ランキン・サンダーが連れられて来た。
 ランキンは何の関係もない5人の市民を残虐に殺した罪で刑の執行を待っていた。
「手紙をありがとう。」
 エナタンはそう言って口火を切った。
 ランキンは黙っている。
「あなたの問いに答えに来た。」
 ランキンの瞳はそれだけの罪を犯した者としての尊大さはもうなかった。むしろ目の前の死にすくむ幼な子のようだった。
「あなたがもし、自分の深い痛みを見ることをするなら、わたしはここで全力で支えよう。」
「そんなものを見てどうする?あとは死ぬだけだ。」
「あなたは満たされる道などあるのか?と問うた。わたしは全力で答えたい。あなたがこの瞬間全力で生きるなら道は開ける。そうでなければ道は開けない。」
 ランキンの目は揺れた。エナタンの言うことは分からなかったが、エナタンが真剣な事だけは分かった。
「どうしてそんなことをする?見ず知らずの俺のようなやつに。」
「書いただろう?わたしは人を殺すのを失敗しただけだ。あなたの空洞と同じものを持つ。そしてわたしはホロンに支えられた。同じことをわたしと全く同じあなたに捧げたい。」
「俺と同じだって?」
 ランキンは黙って、そして聞いた。
「あの本はほんとうのことなのか?」
「そうだ。」
 死を目前とすると、シンプルになる。それ以上の問いはなかった。
 ランキンはうなずいた。
「頼む。」
 エナタンはホロンと同じようにランキンをうながした。
「ランキン。あなたのその奥深い痛みの元である空洞を感じて。だいじょうぶだ。けっしてひとりにはしない。わたしも見ている。」
 ランキンはうつむいた。
「痛むか?」
 うなずく。
「ううう。」
 ランキンはいきなり嗚咽した。
「怖い。こんな怖い想いはたくさんだ。死はここに向かうのか?怖い。助けてくれ!」
「しーっ。」
 エナタンは小さな子どもをなだめるように小さく制した。
「わたしたちはこの壁によって隔てられているが、心で手をつないでいる。わたしも一緒だ。もう逆らいようがない。無防備に。子どものように。あなたが怖くて見ないようにしてきたその孤独の中に思い切って入ってみるんだ。」
 ランキンは静かになった。
「入ったな。」
「・・静かだ・・。寒くない・・。」
 しばらくするとランキンは一筋涙を流し始めた。
「・・受け入れられている。これだけの罪を犯したのに。なんてことだ・・。」
 ランキンは机につっぷして泣いた。
 生まれて初めてランキンは懺悔した。
 今までどこにも、誰にも、何にも受け入れられた経験のないランキンは、その存在の根本を受け入れられることによって初めてその懺悔の扉が自然に開かれた。
「なんてことだ・・受け入れられている!いったいこれはなんだ!」
「それはあなた自身の孤独をあなたが受け入れた、ということだ。」
「どうして今頃?もっと早くにそうだったなら・・。俺は人を殺すことなんてなかったんじゃないか?」
「ランキン。たとえ今ここで死ぬとしても、遅すぎるということはない。」
「だが、俺が殺した人々はどうなる?ああ、俺は今初めて後悔する・・。」
「あなたは背負える。しっかりと後悔し、懺悔し尽くしてこの瞬間ここに存在してください。してしまったことはもどらない。それがあなたの償いだ。」
 ランキンは何かが抜け落ちたようにうなだれ、つぶやいた。
「そして死を自分のものとして、彼らの恐怖を、身を持って償うんだな。」
 ランキンの目は静かに澄んだ。
「ありがとう。わざわざ俺のために来てくれて。」
 ランキンは刑務官に連れていかれた。
 エナタンは脱力したようにそこでしばらく立つことを忘れた。
 ようやく刑務官にうながされて部屋を出た。
 エナタンは言葉を発することをしなかった。
 フェイは黙ってそれを受け止めた。
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バースデイ
 しばらくエナタンは講演の予定を入れるのをやめた。
 自宅の周りの樹木の中を散策する日々が続いた。
 鳴くことを忘れた鳥のように、眠ることを忘れた魚のように樹木の下で立ち尽くすエナタンを、フェイは見守った。
 フェイが午後のお茶を入れた。
 エナタンが森からもどってテーブルについた。
「フェイ。」
 フェイはうなずく。
「あの緑を見たか?」
 そう言ってエナタンは後ろに広がる森の方に手を拡げた。午後の陽射しを受けて葉の輪郭が光っていた。
 フェイは微笑みながらうなずく。
「美しいだろう?こんな美しさがあるか?」
 エナタンの瞳は子鳩のように澄んだ。
「世界は美しいんだ。オレは知らなかったよ。」
 こらえ切れずフェイは笑った。
「ハッピー・バースデイ!エナタン!」
「なんだ?」
「生まれたのよ。今。」
「生まれた?」
「あなた、ランキンの死と同化していたでしょう?まるで冬眠の熊のようだったわ。そして、生まれたの。ランキンとともに。」
「ランキンと?」
 つぶやくエナタンの腕に自分の手のひらを乗せてフェイはうなずいた。
「ランキンが一瞬でも本来のランキンとして生きたなら、その時をともに過ごしたあなたとここに生きるわ。あの葉が輝くのもあなたの瞳でともに見るでしょう。」
 乗せられた手に自分の手を重ねてエナタンはフェイの言葉をかみしめた。
「そうであるならば、殺された人々も、きっとその役割を果たしてわたしたちとともに生きることになるわね。」
 エナタンはフェイの手をそっと握り返した。

 冬が訪れた。
 ニューヨークにも雪が降った。
 エナタンが住むところはまるでお伽話のような銀世界へと変貌した。
 クリスマスも近い。街は華やいだイルミネーションに包まれていく。
 エナタンはフェイへのクリスマスプレゼントを買うため、街を急いでいた。
 この世に生まれてから、初めてといっていいくらいうきうきとした想いを味わっていた。
 愛する人のためにプレゼントを選ぶことほど人を幸福にするものはない。
 目指す店への角を曲がろうとして、エナタンは一瞬見覚えのあるものを見たような気がして振り返った。
 ショーウインドウに天使の翼が光って映って見えた。
 思わず足を止め、ゆっくりとその店へと近づいていった。男がそのウインドウの中を覗いていた。
 エナタンはハッと気づいた。
 その翼は、ショーウインドウの中のものではなくて、そこに映し出されたものだった。
 それは、黒いコートを来たその男の背中に生えていたのだ。
「あなたは・・?」
 振り返ったのはカイルだった。
 翼は消えていた。
「今、きみ・・。」
 背中を指差しながらつぶやくエナタンを見てカイルは笑った。
「やあ!元気か?」
「・・久しぶりだ。」
「フェイは元気か?」
 そう問うてカイルは面白そうにおどけてみせた。
「これは前に誰かさんがオレに問うたセリフだな?」
「元気だ。」
 エナタンは微笑を浮かべ、カイルに手を差し出した。
 カイルは愉快そうに握手を交わした。
 自然と一緒に歩き出した。
 エナタンが問うた。
「何を見ていたんだ?」
「プレゼントだ。」
「誰に?」
「秘密だ。」
 エナタンは少し笑うと、ちょっと躊躇しながらカイルの目を見て言った。
「きみにちゃんと言ってなかったが・・。」
「なんだ?」
「『LIGHT GATE』に出て来たミカエルなんだが・・。」
「ああ。」
「・・いや・・。」
「・・。今きみはしあわせなんだな?」
 エナタンの言葉には頓着せず、唐突にカイルは聞いた。
「えっ?」
「ならいい。言っておくが、オレもオレなりにしあわせだ。」
 カイルはビルを見上げて手を伸ばした。
「星の数ほどのイルミネーションだ。その数くらいしあわせはある。」
 エナタンはうなずいた。
 カイルはエナタンの肩をたたくと笑って片手を挙げて去っていった。

[ミカエルはきみだ。]
 そう言おうとしてエナタンは黙った。
 言わなくてもカイルはミカエルとして生きていると直感した。
 歩き出しながらエナタンは思った。
(だが、ミカエルとしてのカイルと、語ってもみたかった・・。)
 顔を上げてふっと笑った。
(いや、それはいずれたっぷりと出来るんだ。)
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天使の季節
 角を曲がって現われたのはミュージック・ストアだった。その店はクラシックやゴスベルの在庫が幅広く、こだわった店だった。
 エナタンは天界で聞いたフィオナの歌声に近いものを、フェイに贈りたかったのだ。
 だが、そういった分野に全く知識のないエナタンにそんなものが見つけられるのだろうか?
 エナタンは心配していなかった。
 インターネットでこの店を見つけた時、何か弾かれたようなものがあったのだ。
 そして今、この店に入ってレジに真直ぐ向かって安堵した。
 ここなら見つかる。
 店主は笑った。
「何かお探しで?」
 穏やかな笑みを浮かべる髭をたくわえた初老のその男性は、まるで初めて会った気がしなかった。
「あの。」
 エナタンは鼻の前で人差し指を立てながら、思い切って告げた。
「天界の癒しの門で歌われる歌を探しているのですが。」
 店主は何の躊躇もせず、鷹揚にうなずいて奥の棚へと向かった。
「こちらでしょうか?」
「えっ?」
 見せられたCDにはこう書かれていた。
『癒しの門/マデリン・ヌーベルバーグ』
「聞いてみることは出来ませんよね?」
「かまいませんよ。」
 店主は躊躇なくその新品の包装を破った。
 エナタンのヘッドフォンから、その歌がそよぎはじめた。かと思うと、あっという間にめくるめく天界の風に巻き上げられる。
 明らかにこれは天界に属していた。迷うことなくエナタンはうなずいた。
「これを。」
 店主が包装する間にエナタンはふと聞いてみたくなった。
「わたしがこれを買うと思いましたか?」
「ええ。」
 こともなげに店主は答えた。
「なぜ?」
「勘ですよ。」
「えっ?」
「わたしは、お客さんがどの曲を求めて入ってこられたか、だいたいそこの扉から分かるんです。」
 エナタンは自分が入って来た扉を振り返りながら目を丸くした。
「ほんとに?」
 店主はくっと可笑しそうに笑い、そして包みを渡しながらウインクした。
「うそです。タイトルですよ。そのまんまじゃないですか。」
 エナタンは虚をつかれてあっけにとられ、そして愉快そうに笑った。
「ありがとう。」
 他の客が入って来た。
 扉を出ようとして振り返った。
 その時、エナタンには本当の理由が分かった。
 店主の後ろには、白い翼がうっすらと光っていたのだ。
 クリスマスも近い街をゆく。
 エナタンにはもう分かっていた。
 この時期には天使はしっぽを見せる。
 この街には無数の天使が今、翼を生やして歩いている・・。

 フェイへの包みを小脇に抱えながら、雪がまた降り出した街を地下鉄の駅に向かった。 
 いくらか顔が売れたとはいえ、普段はかけない黒縁の眼鏡をかけていると雑踏に容易に紛れることが出来た。そうして街を歩くことが好きになっていた。
 階段を降りかけて、エナタンは足を止めた。そこに子供がひとりうずくまっていたからだ。
 周りを見回したが連れもおらず、誰も立ち止まる者はいない。しゃがんでその子の肩にそっと触れた。
「どうしたんだ?」
「何でもない。」
 男の子は怒ったような目をしてエナタンを睨みつけた。だが、その額に脂汗が浮いている。
「何でもなくないだろう。医者に行こう。」
「ほっといて!」
 だが海老のように丸まり、うなり始めた。
 エナタンは包みをコートのポケットにねじ込むと、男の子を抱え上げた。
 タクシーを拾い、運転手に告げた。
「どこでもいい。一番近い病院へ行ってくれ!」
 エナタンの腕の中でうなっているその子に聞いた。
「名前は?」
「アンディ。」
「フルネームは?」
 答えない。
 すぐに病院の玄関口にタクシーは滑り込んだ。
 エナタンはアンディを抱えて病院へ駆け込んだ。
 廊下で待っていると、医師が診察を終えて出て来て告げた。
「もう少し遅ければまずいことになるところでした。腹膜炎です。これから手術しますので、お父さんは同意書を書いてください。」
「いえ。親ではありません。」
「えっ?」
「地下鉄の階段でうずくまっていたのを連れて来ただけです。」
「身元は?」
「アンディという名前しか言わなかった。」
「そうですか・・。受付のスタッフを呼びますから少しここでお待ちください。失礼。」
 身分証明を見せて連絡先を書き込むと、エナタンはスタッフに聞いた。
「あとはどうしたら?」
「お帰り下さっても結構ですよ。」
 スタッフが立ち去って、エナタンは病院の廊下で立ち尽くした。
 アンディのことが気になっていた。
 街はクリスマスで浮かれているというのに、たったひとり、小さなからだで怒りを抱えていったいどうしたのだろう?
 フェイに電話して事情を告げた。
 しばらくいることにして、待ち合い室のソファーに腰を下した。
 しわくちゃになった包みをコートのポケットから取り出して見つめると、それを仕舞った。
(彼には贈り物をくれる人はいるんだろうか?)
 窓の外の雪が激しくなってきたのを見ながら、エナタンは子どもの頃を思い出していた。
 父はクリスマスの時も仕事でいなかった。
 母とふたりで小さなクリスマスツリーを飾り、そう華やかではない食卓を囲んだ。
 母は生活を楽しむということの不器用な人だった。洒落た料理や飾りには無頓着であまり生活に色彩はなかった。
 無口な母と静かなクリスマスを過ごした。
 けれども少なくとも母はいた。
 アンディには家族はいるのだろうか?
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アンディ
 時が止まったような時間を過ごして、扉の開く音に我に返った。
 ストレッチャーに乗せられたアンディが運ばれて来た。麻酔で意識はない。
「もう大丈夫ですね?」
「ああ、あなたですか。大丈夫です。」
「身元は結局わからないんでしょう?」
 看護師が答えた。
「施設の子どもらしいですね。施設の名前が下着に縫い付けられていましたから。連絡してみます。」
「どこの?」
「ダウンタウンの方です。」
 医師と看護師は会釈すると、ストレッチャーをエレベーターに乗せて病室へと上がっていった。
 エナタンはひと区切りついたことを知り、歩き出した。
 タクシーを拾った。地下鉄に乗る気が失せてしまった。
 雪の中を家へと向かう車にうずくまりながら、ニューヨークの夜景を眺めた。
(アンディ・・。もうすぐ、クリスマスだ・・。)

 3日後、エナタンは病院の階段を昇った。
 受付でアンディの部屋を聞いた。スタッフはエナタンの顔を覚えていた。
 4人部屋の窓側にアンディはいた。
「やあ。」
 アンディはエナタンのことが分からず、警戒した顔をした。
「覚えてないか。階段できみを抱き上げてここまで連れてきた。」
 アンディはむすっとした顔になり、横を向いた。
「覚えててくれたな。今日はずいぶん顔色がいい。すぐに退院できる。」
「退院なんかしたくない。放っといてくれればよかったんだ。」
「帰りたくないのか。何かあったのか?」
 アンディは眉根にしわを寄せた。
「関係ないだろ。」
「そうだ。・・関係ないな。」
 そう言って後ろに持っていたものをアンディの目の前に出した。
「メリークリスマス。これを受け取ってくれれば関係はできる。」
 アンディは横目で包みを見た。
 だが、顔は横を向いたままだった。
「どういう関係?」
「友達だ。」
 今度は真正面にエナタンを睨み付ける。
「なんで?」
「なんで、もないだろう?友達になるのに理由がいるか?」
「憐れみならやめろよ。」
 まだ、10にもならないかに見えるアンディがそう口にするのを聞いて、エナタンは笑ってうなずいた。
 ベッドに腰掛けてアンディに告げた。
「きみが可哀想なら友達になんかならない。」
「じゃ、なんで?」
 気の張っていた声のトーンが少し下がった。
「きみはちゃんと怒ってた。きみは、僕はここにいると叫んでた。だからわたしは答えたくなった。そうだ、きみはそこにいるって。」
「・・?・・だから?」
「そういうのを友情って呼んじゃだめか?これはものじゃない。友情の証だ。さあ。」
 そう言ってエナタンが差し出す包みを、アンディはしぶしぶとその小さな手で受け取って破き始めた。
 中から出て来たのはターコイズブルーとエメラルドグリーンが混じったマーブル柄のふかふかのマフラーだった。
「きみの髪の色に似合うんじゃないかと思って。」
 赤毛のアンディは黙ってマフラーを握った。
「怒ってるのか?」
 アンディが何も言わないのでエナタンは少し心配になった。
 そこへ看護師と中年の女性が入って来てアンディのベッドに歩み寄った。
「アンディ。」
 アンディは声の方を振り向くと眉間にしわを寄せた。
 看護師が紹介した。
「ああ、この方はアンディを地下鉄の駅からここへ運んで下さった方です。えー・・。」
「エナタン・ソダーバーグです。」
「ソダーバーグ?」
 女性は聞き返した。
「あの、作家のソダーバーグさん?」
「・・ええ。」
「まあ、それはそれは。わたしはアンディを預かっている施設の施設長です。アナ・ロランといいます。この度はありがとうございました。」
 エナタンはアンディを気にした。
 さっきよりもさらにむっつりと貝のようになっている。
「この子は脱走の常習犯でして、目が離せません。」
「アンディに何か?」
「様子を見に来たんです。」
 アンディはマフラーをアナに投げつけ、ベッドから降りて走ろうとした。
 エナタンはアンディを抱きとめた。
「だめよ!おとなしくしてなさい!」
 アナはピシリと叱ったが、アンディの心には届いていなかった。
 小さいが確かなぬくもりが激しく生きようともがいているのを自分の両腕に感じながら、エナタンは小声でささやいた。
「山羊男を知ってるか?」
 腕から逃れようと暴れるアンディに構わず、話を続けた。
「背中には紅いたてがみのような毛が生えている。たてがみを知ってるか?」
「うるさい!離せ!」
「ひづめを響かせて2本足で立って歩く。走ると速い。わたしは追い抜かれた。」
 腕を振り回して暴れていたアンディは、ふいに疲れたのか力を抜いた。大きく息をしながら、不機嫌そうにつぶやいた。
「・・競争でもしたのか?」
 エナタンは笑って力を抜いた。
「追いかけられそうになったんで逃げたんだ。」
「なんで?」
「聞きたいか?」
 アンディは黙った。
「じゃ、ベッドに入るんだ。話そう。」
 アンディはむすっとしたままおとなしくベッドに入った。
 エナタンは看護師とアナにうなずくと、アンディに語り出した。
 
 小1時間ほどしてエナタンは病室を出た。
 ナースステーションで看護師が笑顔を見せた。
「眠った。」
「ありがとう、ソダーバーグさん。助かりました。」
「ロランさんは?」
「お帰りになりました。アンディが興奮するといけないからと。」
「施設で何かあったのですか?」
「さあ、わたしたちもまだ詳しくは分からないのです。」
「その施設の名前と場所を教えてください。」
「わかりました。」
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