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ルシファー
 ・・・・・・

 わたしは「光を運ぶ者」「光り輝く者」。「光の天使」と呼ばれた。
 深遠を知り、あらゆる美しさを感受する力と、それを発揮する才に恵まれていた。
 天界のものは皆、容姿、知識、勇気、人望わたしのあらゆる部分を讃えた。
 わたしにはなんの陰もなく、満足と自信と力に満ち満ちていた。
 ある時、わたしは思った。
 これだけ全てを理解し光り輝いているとしたら、一体神とわたしとの違いはなんであろう?
 その小さな疑問はわたしのすべてを捕らえるのにそう間を置かなかった。
 わたしは気づいたのだ。
 わたしが神になって何が悪い?
 その高揚と恍惚といったらなかった。わたしはまさにその時、堕ち始めたのだ。
 かしづくものを頂いていたその封印はみなぎるものに喝破された。
 わたしが声をかけると、天界の1/3の天使が集まった。

 わたしは月の天使ホロンにも声をかけた。
 だが、ホロンは言った。
「ルシファー。きみがほんとうに喜ぶことならわたしは喜んで手伝おう。だが今、きみがやろうとしていることはそれではない。ミカエルはきみを捕らえて離さないものに容赦はしないだろう。それがミカエルの愛だ。だがわたしはきみの本質だけを見よう。きみはこれによって苦しむ。それがわたしはつらい。思いとどまってくれ。」
 だが、わたしの耳にそれは届かなかった。
 ホロンは飛び立とうとするわたしを羽交い締めにしたが、わたしは振り切った。
「待て!わたしは約束する。たとえきみが堕ちても、きみを追ってゆく。そして、きみがほんとうの喜びに再会するためにすべてを懸けよう。それがわたしの存在の喜びだから。それこそがきみも望むものだ。知っている!信じている!忘れるな!」
 わたしはホロンが叫ぶ声を聞いた。
 だが、その時は聞き流した。
 わたしたちは闘った。太陽の天使ミカエルの率いる天界の天使たちと。
 闘いは熾烈を極めた。天に逆らったわたしたちは初めての敗北を味わい、羽根は裂け、黒く焦げ、味わったことのない恐怖とともに地に堕ちていった。
 わたしは恨んだ。底深くより天を憎んだ。
 この恨みを晴らすために、わたしは地において魔王となり、人に闇を教えた。

 ・・・・・・・

 座り込んで青息吐息でいるエナタンに男は言った。
「わたしが落ちた時、わたしの後を追ってホロンは泣いてくれた。ホロンはわたしの軍には加わらなかったのに、今もこうしてわたしとともにある。」
 エナタンは傍らのホロンを見上げた。
 ホロンは静かな目をしてうなずいた。
「きみの一番抜き差しならぬ業がこの第5の門の傲慢だ。なぜきみがそういう人生を歩むのか分かるだろう?これを超えなければならない。自分自身を超え、進化するために地上に生まれる。それ以外になんの目的がある?」
「わたしが、おまえ?」
 その男の座り込んだ下半身に目が釘付けになった。
 凍りついて化石のようになっている。
「サタン・・なのか?おまえは・・いや、わたしは・・。」
「ルシファーだ。」
 とたんに赤い竜が自分のそばを巡るのを感じた。
「それもわたしだ。わたしは金星の神とも呼ばれた。竜の形をとることもある。」
「わたしが何を出来る?もう地上にはいない。何も出来なかった。」
「いや。今していることがおまえに託したことだ。」
「?」
「見よ。わたしの羽根はもう天を飛べず、わたしの足は自らの思い上がりによって朽ち果てようとしている。わたしの中に僅かに残る天上の欠片が、おまえを生んだ。そしてその僅かな欠片が、ホロンの声を聞く。そうでなければわたしの腹で憎しみで煮えたぎる溶岩と、この胸の氷のような息にやがてこの座を明け渡すこととなろう。あとはただ黒い残骸の山となるだけだ。それはこの世に憎しみの種となってまき散らされてゆく。ルシファーはただの憎しみの砂塵となる。かつて光といわれた者が・・。」
 ルシファーの瞳は深い孤独に沈んだ。
「今までの人類の歴史を知っているだろう?わたしの砂塵を表現しているのだ。この慟哭を乗り越えるために人生はある。乗り越えなければこれは未来へと永々と受け継がれる。」
 ルシファーは僅かに残る浄い光を瞳に宿らせて語った。
「ゆくのだ。わたしの源へ。生きなおせ。そしてかつてそうであった、そして未来そうであるわたしとなれ。」
 この詮無き哀れな存在がために自分の人生はあったのか。
 エナタンはしばし身じろぎもせず沈黙した。
 深い深い闇の底からの凍えるような風はここから来ていた。哭きたくなるような冴えざえとした切なさは、ここから受け継がれてきていたのだ。
 深い理解がエナタンの身を覆っていた。
 恨みと憎しみは、苦しみと哀しみの裏返し。
 自らの行ないを背負い切れずに地に堕ちた。
 だが・・。
 やがてゆっくりと静かに立ち上がった。
 分かっていた。
 これは自分ひとりのことではない。
 地上に人が生まれ、繰り返しそれをおさらいし、乗り越えようとして散り行くようになったのは我がルシファーの所業から始まったのだ。天の床を掴んで引きずり下ろしたのはこのまさにわたしであるところのルシファーなのだ。
「償えぬわけだ。」
 エナタンはつぶやいた。
「だが、ゆくしかないのだな?」
 ホロンに問うた。
 ホロンは黙ってうなずいた。
「さあ、その根へと。その深みへと。」
 ルシファーはうながして自らの息で第6の門を開けた。
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第6の門
「うっ。」
 エナタンは頭を押さえた。
 頭の芯にキーンと響く高い金属音のような振動を感じた。
 前へと足を出すことに多大な努力を必要とする。
「なんだ、これは?」
「息を静かに。ゆこう。」
 ホロンは大きく息を吸って、そして息を詰めるとエナタンの背中を押した。
「この満ち満ちる振動はなんだ?生理的にいやな感じだ。毛が逆立つ。」
 ふたりはサタンとも恐れられるルシファーの、微かな希望に見送られて第6の門の中へと姿を消した。
 闇の中でぶつかって来たものがあった。
 エナタンには分かった。
「コウモリだ。」
 それらが、1匹や2匹でないことはその羽ばたき音で分かった。
「コウモリの鳴き声か?」
「いや。」
 ホロンの声だけがする。
 あまりの闇にホロンの全身は沈んでいた。
「きみが一番見たくないものはなんだ?」
「脅かすな。それが出るんじゃないだろうな?」
「闇というものは何かわかるか?」
「何?」
「それは想念が作り出す。自然が作ったものではない。だが、自然が我々を作った。だから元をたどれば自然とも言える。」
「おまえの言うのはよくわからない。何が出るんだ?」
 と言った時、エナタンは自分の行く手を綱のような何かに遮られた。ハッとすると、その綱は縦横無尽に張り巡らされていることに気づいた。
「うっ?この綱は粘着力がある・・。」
 金属音のようなかん高い音は高くなった。
「くっ・・。つらい・・。なんなんだ、この音は?」
 すると、音が高くなるのに合わせて大きな赤い光が点滅し始めた。
 その光のおかげで、エナタンは自分の目の前にあるものを見るはめになった。
 白い綱を張り巡らせた巨大な岩ほどの蜘蛛が、燃えるように赤く光っている。
 どう見ても怒っているとしか見えない。
「逃げろ!」
「どっちへ!」
「こっちだ!」
 たった今エナタンがいた場所に、蜘蛛は体当たりしてきた。岩盤が振動した。
 ホロンは壁の横穴に潜った。
 エナタンも飛び込んだ。
「当たりだ!オレが一番見たくないものだ!」
 ホロンは素早く横穴をくぐり抜けて、他の洞穴に出た。
「まいったな。しかもでかい。」
 珍しく愚痴をこぼした。
「きみにつきあうには骨が折れる。スリラー作家が蜘蛛が嫌いか?」
「贅沢いうな。嫌いなものに理屈があるか?なんなんだ、この門は?」
「見ただろう?・・怒りだ。走れ!追ってくるぞ!」
 ふたりは走った。だが、あのいやな高い音は少しも小さくならない。
 赤い蜘蛛はすぐにこっちの洞穴を見つけた。
 がさがさと足音は幾重にも重なりあって重く響いてくる。
「想念なら消えろ!消えてくれ!」
「違う。その大元の怒りが鎮まらなければやつは消えない。やつは象徴だ。だが、きみを殺すことは出来る。」
「うんざりだ!何度死ぬっていうんだ!もう言語を絶する苦しみはごめんだ!」
 ホロンは今度は天井に開いた小さな穴を見つけて器用にそこに飛びつき、エナタンを引き上げた。
 間一髪、蜘蛛は通り過ぎた。
「少しでも遠くへ行くぞ。あの音がしているだろう?」
 ふたりはさらに昇り続けた。さらにさらに上へ上へと。
 やがて穴に下りてから初めて外気をその頬に感じた。
 崖の淵がテラスのように広がっている空間に出た。
「外だ・・。」
 エナタンがほっとした声を上げた。
 初め曇天のようだった空は、まるで夜のように暗く沈んでいた。
 重く黒い雲が垂れ込め、風が吹き渡っている。
 眼下は果てしなかった。広さもそうだが、深さも底が見えなかった。
「ここもあまり、希望的なところでないことだけはたしかだな・・。」
 ほっとしたのもつかの間、エナタンの声は曇った。
 ホロンが笑った。
「くっくっくっ・・蜘蛛もわるくなかったな。」
「えっ?」
「べたべたした執着が絡まり合っているのはたしかに蜘蛛の糸のようだ。怒りをよく現わしている。」
「変なところで感心するな。」
 だが、エナタンも気づかず笑っていた。
 苦難をともに超えてきたことで、エナタンはホロンに道案内以上の感情を覚えてきていた。
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第7の門
「怒りはきつかった。」
 エナタンはつぶやいた。
「ああ。」
「人格が破壊されるような高圧のエネルギーだった。あれがあるとないとではどんなに違うだろう。オレにあれがなければどれだけ平穏でしあわせに暮らせただろう。」
「だが、すべての人間の底にそれはある。」
「うそだ。ないものもいる。」
「いや。あるんだ。」
 ホロンは崖の淵に座った。
 エナタンもつられて横に座った。
「笑顔の下にそれがないと思うか?怒ったことのない人間にあれがないと思うか?あれはマグマだ。星の胎内にめぐる、星を星となしている爆発的なエネルギーだ。わるいものではない。」
「えっ?」
「だが、それに手綱をとられるな。扱いを間違うと、ああして糸を絡ませて巣食う。パワーはただ創造へと向ければよい。」
 エナタンはホロンの顔を見つめた。
 さっき笑った顔が、やはりどこかで見た顔だった。
 だが思い出せない。
「ルシファーと友だったと・・。」
「つまり、きみと友だということだ。」
「ルシファーとの約束。そのためだけにたいへんな想いをしてオレを導くのか?」
 エナタンが口にしたとたん、いきなりホロンのつぶらな瞳から水晶のような欠片がぽろりとこぼれた。
 エナタンはふいを突かれて動揺した。
「胸が張り裂けるかと思ったよ。きみが落ちた時。自分は相手であり、相手は自分だ。境界はない。自分の身の一部が落ち、痛み、苦しんだのだ。」
 エナタンは驚愕した。
「まさか。何を言っている。そんなのは偽善だ。」
「身をふたつとしてから、そう考えるようになった。相手は自分と違い、違う者は敵だと。偽善という言葉は天上界にはなかった。善と悪が分かれる前の世界だったからだ。全き円の前に善すらないのに、ましてや偽善など。」
「全き円?なんのことだ?まだ、第6の門だ。これより深い闇とはなんだ?闇の果てに何がある?ルシファーの源へと行くと言った。それはなんだ?」
「エナタン。」
 ホロンは静かな声を響かせた。
「わかるか?今きみが子どものように矢継ぎ早に問いただすその心の根が。」
 エナタンは黙った。
 そしてつぶやいた。
「分からない・・。」
「それがこれからゆく第7の門だ。」
「それはどこにある?」
「ここだ。」
 そう言ってホロンは自分の足元の果てしない深い闇を指した。
 エナタンは立ち上がった。
 首を振って後ずさりした。
「何を言ってる。この下へなど降りれない。行くのは無理だ。」
 ホロンはしばらく黙ってエナタンの瞳を見つめていたが、揺るぎない声で続けた。
「この先にこそ、きみが見たいものがある。なんのためにここまで来た。なんのためにつらい想いをしてきた。もどって蜘蛛の餌食になりたいのか?よしんばそこをくぐりおおせても、あの哀れな自分を見たいのか?たとえそれを無視しても、溶岩を泳いで渡ることは出来まい。憎しみに焼かれ続けたいか?引きずり落とされ、人を引きずり落とし続けたいか?牙を剥き、人であることを忘れたいか?石となって永遠に呻くことを選ぶか?」
 エナタンは両手で顔を覆ってまた座り込んだ。
 ホロンは前を向き、風に吹かれながら独り言のようにつぶやいた。
「地獄などない。あれは地上の映し絵だ。ないものがありありと存在する。人間の創造のエネルギーの結晶だ。・・たいしたものだ・・。」
「恐ろしい・・。」
 ホロンは振り返った。
 エナタンが子どものように泣いていた。
「どうやってあの闇へと行けというのだ。その向こうに何があるのかも分からぬというのに・・。」
 ホロンは小さく微笑んで、立ち上がった。
 エナタンの横に座り、背にそっと触れながらかみくだくように語りだした。
「なにもかも捨てた時、すべてを受け取る。きみが自分をあきらめた時、門は開かれる。わかるか?赤子のようにそうして投げ出せ。死してなお死を恐れるな。なんのためにこの12の門があると思うのだ。」
「なんのために?」
「なぜ、ホロンはルシファーと約束したと思う?そこに喜びがあるからだ。ルシファーがほんとうの喜びに出会うことがわたしの喜びだからだ。なぜならわたしはきみだから。」
 エナタンは顔を上げた。
「おまえがわたし?」
 呆然とした顔でつぶやいた。
「なんのことだ?この闇のどこに喜びなどある?」
「足りる者がいれば、足りない者もいる。だが、それはほんとうはどちらもいない。だがそれは、それでもどちらもいるとも言える。」
 ホロンはまた謎かけのような言葉を吐いて微笑んだ。
「闇だけがあると思うのか?わたしはずっと言っている。ありありと存在するものは幻でもある。だが、幻は存在し、苦しみも尽きることを知らない。」
「この闇の深淵が幻だとでも?」
「だから、言っている。幻でもあり、ありありと実在もしている。どちらも真実だ。」
 ホロンは地平の果てを見遥かして言った。
「ここに飛び込む時、そこに欲も期待も混ぜてはいけない。ただ、ありのままに赤裸々に小さくあるなら、大きなものに抱かれよう。」
「神のことを言っているのか?オレは神を信じない。だから救われるわけもないし、救われようとも思っていない。」
「だったらなぜ泣く?なぜこの闇に飛び込むことを恐れる。救われなくともいいのなら。」
「理屈じゃない。肉体の記憶だ。恐怖の記憶だ。」
 ホロンは笑った。
「へ理屈だが、やっと白状したな。」
 大きくうなずいた。
「そうだ。人間の一番底には、存在の恐怖の深淵がある。それがこの第7の門だ。自らの存在を失う恐怖ほど、人間を苛み、凍らせるものもない。肉体を失うことを言っているのではない。ひとは肉が自分ではない。存在とは魂だ。自らを自らと感じるその愉悦を、その快楽を失う恐怖からあらゆる苦しみは生まれてくる。嫉妬も憎しみも。怒りもそうだ。思い上がりも、自らの存在をまさに示したいがため。そのことと闘い続けてきたのだ。人と闘ってきたのではない。それを地獄と呼ぶ。地獄という世界は用意されていたわけではない。人間の創造だ。だが、その恐怖を超える時、想像も超える新たな地平は開かれる。」
「超える?」
「自らを人智を超えたものに預け切る覚悟をしたなら、ともにゆこう。それまで待つ。」
「ゆくとは、どうするのだ?」
「ここから飛ぶ。」
 エナタンは絶句した。たとえもし蘇れると約束されても、その恐怖を拭うことは不可能のように思えた。
「たとえこれが夢でも幻でもそこまでする意志はオレにはない。」
「きみが頑固なのはよく知っているから構わない。」
 そう言ってホロンはそこで寝そべって目を瞑った。本当にいつまででも待つつもりでいる。
 エナタンは途方に暮れた。
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深淵
 地上でいうなら何日が過ぎただろう。
 たしかに肉体の自分ではないことは充分すぎるくらいわかってきていた。
 腹が減るという感覚を覚えることはない。
 だが、エナタンはある感情に苛まれてどうにもたまらなくなってきていた。
 イライラと崖のテラスを歩き回る。
「少しは静かに座ったらどうだ。」
 ホロンが横になったまま、可笑しそうにニヤリと笑う。
「放っておいてくれ。」
「他に何か言いたいことはあるか?」
「畜生!どうしてこうイライラする?」
 ホロンは大きく肩を震わせて笑いながら起き上がった。
「少し正直になったらどうだ?」
「何のことだ?」
「進みたくてしかたがない自分に気づいているのか?」
「何だって?」
 ホロンは小さく嘆息するとエナタンに向き合った。
「初めに言ったはずだ。きみが望んだのだと。」
「いや、オレは行きたくない。」
「きみが満たされるためにここを進むしかないことを一番よくわかっているのはきみだ。わたしではない。」
「なぜ、そんなことが言える!オレの何を知っていると言うんだ!」
 ホロンは笑んだ。
 エナタンは今と同じことを言って、同じように笑んだ者があったことを思い出した。
「ヨキ・・。」
 ホロンがまとう山羊の衣がエナタンの心の眼によってようやく融かされた。
「おまえは、ヨキか!」
「やっとわかったのか。」
 エナタンは座り込んだ。
「どういうことだ?なぜヨキが・・。」
「話が逆だ。わたしがヨキになったのだ。きみがエナタンになったために。」
「わたしがエナタンになる前から、おまえはわたしとともにあり、地上でも・・。」
「地上と天上を分けるな。天上がさらに進化するために地上という場は設けられた。物語は続いているのだ。」
「だからオレのことをむやみに知っているような顔をしていたんだな?」
「ヨキの記憶にホロンもルシファーもない。だが、きみのことは“むやみに”気になり、支えることを使命とした。」
「それだ。なぜおまえはオレのことをむやみに支えようとする?それが分からない。」
「その当たり前のことを忘れたから今きみはそれを取り戻しにゆこうとしている。」
 ホロンは風に手をかざした。
「わかるか?この流れが。この風が向かおうとしているところが。身の内のサタンエナジーに囚われている時、これに気づかない。世界は刻々とこの流れに向かっている。なぜならそこに目指すものがあるからだ。」
 ホロンの穏やかな語り口にエナタンの心はようやく鎮まってきていた。
 自分の頬にさやさやと微かなその風の流れをあらためて感じた。
 崖の淵に静かにひざまずいた。
「・・恐ろしい。」
「かまわぬ。恐ろしいままに進むのだ。」
「それでいいのか?」
「傲慢によって落ちたきみには、恐ろしさこそが救いだ。怖れを知ったことが始まりではないか。」
「なんの期待もせずに・・赤裸々にあるのだな?」
 ホロンは微笑んだ。
「無防備に。そうある時の胸を感じよ。」
 エナタンは俯いた。
「痛むか?」
 頷いた。
「大丈夫だ。わたしもともにそれを感じている。決してひとりにはしない。そこから目を逸らすな。」
 エナタンはホロンの無限大の母性と父性に支えられて、ひとりでは決して向き合うことの出来なかった自分の痛みに触れた。
 ひりひりと切々とそこには置き去りにされてきた痛みの数々が眠っていた。
 傷つけられたように感じたこと、傷つけてそれを見ないようにした時の自分の傷、ささくれ立つそれらは泣きながら怒りをぶつけて来た。
 無視されてきたそれらが復讐するがごとく声高に抵抗し、やたらに自分を大きく見せ、頑丈な自我で防衛し、他の上に立って他を虐げることでその存在をアピールし続けて来たことが分かった。
 自らの傲慢のほんとうの姿とは、かくも哀れだったのか。
 そしてそれによって虐げられてきた他も哀れだった。
 涙がとめどなくエナタンの頬を滴り落ちた。
「どうしたら許されるというのだろう?オレは他人にも自分にも酷くあり続けて来たというのか?救いようがないではないか・・。」
 ホロンはエナタンの肩を抱いた。
 ともに泣いていた。
「きみはその傲慢を抱いて飛べ。きみのものだけではない。すべての人間のそれを背負い、抱く心でこの闇に融けよ。わたしもゆく。」
 エナタンの瞳からようやく曇りがとれた。
「わかった。それならばゆく。それがオレの生の意味だというのなら。」
 記憶にある限り、今まで祈ったことはなかった。
 だが、見たことがないほどの底知れぬこの闇の深淵と、自らが背負うものの大きさに、思わず手を組んだ。
 ホロンの顔を見た。
 ホロンは明るく頷いた。
「ホロン・・。ありがとう。・・言っていなかった。」
 それだけつぶやくと、エナタンは何かが抜け落ちた幼な子のような顔をして小さく息を吐き、そして、全てを預け切り、ただ、底知れぬ深淵へと崖の縁を蹴った。

 永遠の時が過ぎるようでもあり、一瞬のようでもあった。
 宙を真っ逆さまに落ちてゆくエナタンに、天から落ちた時の恐怖はなかった。
 静かな時のない時の中にあらゆる生の瞬間が走馬灯のように走り、エナタンはそこを駆け抜けたただの稲妻だった。
 恐怖が抜け落ちたエナタンは、大きな闇の揺りかごに向かって赤子のように安らかに身を任せ、ただ空を切り続けた。
 寄る辺なき身はもう、何も望まず、何も必要としなかった。
 永劫の果てからの罪業を懺悔し尽くし、全て闇の向こうへと任せ切った。

 終わりも始まりもなく。
 ただ。

 すると、闇は柔らかくエナタンを迎え入れた。
 地平まで継ぎ目なく覆われた、大いなる者のそれはビロードの衣であった。
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白い空
 ・・・・・・・

 大海が凪いでいる。
 熱くも冷たくもない融けるような心地良いその羊水の波間に浮かびながら、エナタンは深い呼吸に安らいでいた。
「エナタン。」
 呼び掛ける声に遠い眠りから呼び起こされた。
 白夜のようだった。
 白い空が広がる。
 見覚えのあるつぶらな瞳がエナタンの顔を覗き込んでいた。
「ホロン。」
 気づいたとたん水に浮かんでいた身体が沈んだ。大きく両手で水を掻いて水面に浮かび直した。
「行くぞ。」
 うながされて、エナタンはホロンの後を追って泳ぎ始めた。
 すぐに白い浜が現れた。
 水から上がると、その浜に倒れこんだ。
「・・・。」
 ホロンは脇で座り込んでいる。
「ここが闇の向こうか?」
「そうだ。」
「なんという穏やかさだ。」
「ああ。」
「随分久しぶりに明るい空を見た。」
「・・。」
「闇だと思っていた深淵の果てにこんな安らぎがあったとは・・。」
「もうきみは第8の門の内にいる。」
「ここはなんだ?」
「平穏だ。」
「第7の門はいつ超えたのだ?」
「きみが飛んだ時だ。」
「ホロン。」
「なんだ?」
「大いなる者がオレを迎えた。あれはいったいなんだ?」
「・・。」
 ホロンは感慨深く言葉をもらした。
「きみがそこから逃げた。その御胸だ。」
「御胸・・。」
 エナタンはその言葉がまさにぴったりであることを想い起こしていた。
「まだここは第8の門だ。覚えているか?」
 ホロンはエナタンを覗き込んで笑った。
 エナタンは我に返るとつぶやいた。
「まだ先があるのか?」
 ホロンはエナタンをうながすと、立ち上がり、砂浜を歩いていった。
 エナタンはただその後ろをついていく。
 緑が見えて来た。
 樹木の間を分け入って明るくひらけた空間に出た。
 エナタンはそこで驚いて目を見開いた。
 そこには見たこともない美しい花々が咲き誇る草原が、夢のように広がっていたのだ。
 そしてまさに今そこに足を踏み入れようとするエナタンの足元ではふたつの花が咲こうとしていた。
「その柔らかな橙色はわたしので、その横の薄い夕陽色はきみのだ。」
「オレの、とは?」
「今ここにきみが足を踏み入れて抱いた心が花開いたのだ。」
「ではこの・・。」
 エナタンが自分の胸に手を当てて言葉に出来ないでいると、ホロンが代わりに口にした。
「感謝だ。」
「オレの人生にはついぞなかったものだ。それはこうして花を咲かすのか?では、ここにはこれだけ感謝の花が咲いているというのか?いったい誰の?」
「人々のだ。」
 エナタンは遥か一面の花々に黙った。
 自分の目に焼きつくようなこのまさに天界のような光景は、人々が生んでいるというのか?
(たとえこれが幻だとしても、オレはこのことに、感謝するだろう。)
 エナタンは泣いていた。
「よく泣くようになったな。」
「震えがくる。あまりに美しくて。」
 ホロンはうなずいた。
「気づいたか?これが第9の門だ。」
「ああ。」

 オーロラのような輝きを見せる白い空に、鳥のような一団が姿を見せた。
「ミカエル・・。」
 ホロンがつぶやいた。
 鳥のように見えた群れは、近づいてくるにつれ、神々しい顔を持つ天使のような存在であることにエナタンは気がついた。
 信心深くないエナタンだったが、思わず膝を折ってそこにひざまずいた。
 7人ほどの人々は音もなく静かにエナタンたちの元へ降り立った。
「ホロン。よくもどった。」
 真ん中の人物がホロンのいうミカエルのようだった。
 微笑みながらミカエルは語りかけた。
 輪郭がぼんやり光っている。
「ルシファー。よくぞここまでもどった。待ち切れずに迎えに来た。」
「待っていた、と。」
「そうだ。友よ。きみを。もう遥か久遠の昔から。」
「なぜ?わたしは天を裏切ったのです。迎えられるようなことはしていない。」
「そうではない。きみは天の一部だ。きみの苦悩と痛みこそが天への慈愛となるだろう。天はなんびとにも裏切られることはない。きみの心からの涙こそが、この花々の朝露となっているではないか。では、ゆくか。」
「どこへ?」
 ホロンを振り返ると、ホロンは大きな翼を広げた。
「第10の門へ。」
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 ホロンと、人々と、天を舞った。
 エナタンには翼はないのに、ホロンに手をとられて上昇していた。
 雲の上に出た。
 そこは宮殿のような光り輝く場所だった。
 透き通った大理石のような床が一面に広がっている。
 光に満ちていた。
 見覚えのある人物が近づいてきた。
 父と母だった。
「エナタン・・。」
 母はそうつぶやいてただ抱き締めた。
 父もエナタンの肩を抱いた。
 生前はふたりともそういう情愛を見せることはなかった。不器用に振る舞い、エナタンは満たされぬ想いを抱き続けてきた。
 だが、実はそうではなかったことをその抱擁で一瞬にして悟った。
「なぜ・・。これだけの愛を表現してくれなかったのですか?わたしは誤解していた・・。」
 エナタンを導いた光るミカエルは語った。
「それはきみも同じだ。みな、足枷を負いながら地上でそれを表現するというプラクティスに赴く。足枷を持たずに地上には生まれない。みながほんの少しづつお互いにそのことは思いやることでその足枷は融けるのだ。それをきみはしただろうか?」
「・・いいえ・・。」
「責めているのではない。きみも、きみの父も母も、同じだということを思い出しているだけだ。きみが敵だと思った相手も、憎んだ相手もだ。ほんとうの相手をここで知る。愛に満ちた、きみを愛している相手を。きみが愛したかった相手を。」
 エナタンは泣き崩れた。
 自分が人を愛したかったことを、いのちの真ん中で悟った。
 どうしてあそこまで愛することから門を閉ざしたのか。
 そればかりか、相手を抹殺することまで思い、実行した。目の前の愛に満ちた父と母のほんとうの姿に触れ、切なさに赤子のように懺悔に暮れた。
「ここが、第10の愛の門だ。」
 ホロンがささやいた。

 燕の声がして振り返った。
 一羽の白い燕がエナタンの頭上を舞った。
 エナタンはあっと声を上げた。
「燕よ。おまえか?」
 燕はエナタンの目の前で輝く女性の姿になって降り立った。
 その人は美しい意志のある顔をしていた。
 子守唄のように、この上なく美しい調べが聞こえてきた。白い人々が無数にエナタンの周りを取り囲み始めた。
 エナタンの全てを受け入れてその歌を捧げている。
 さっきの燕の女性はひときわ澄んだ歌声でエナタンの胸を打っていた。
「あなたの名は?」
「フィオナ。」
「会ったことがある・・。」
 フィオナはうなずいた。
 その時、エナタンは自分の背に黒い翼が生えていることに気づいた。
 そして、石のように成りかけている足にも。
 フィオナはその醜い翼にもいとしげに触れた。
「さあ、第11の門が開いた。」
 ホロンの声がした。
 その調べはその固い石のような足を構成するひと粒ひと粒の原子にまでしみてくるような微細な振動を持っていた。
 怒りを感じた時の不快感とは対極の、とろけるようなその波動は、凍った足を融かすようだった。
 黒い翼からはまるで枯葉のように黒い羽根がさざめいては抜け落ち、その下から生まれたての白い羽根が柔らかく現われてきた。
 エナタンは自分の白い羽根をひろげてみせた。フィオナは微笑んでいた。
 ホロンを見た。
 ホロンは一筋涙を流している。
「ここで、すべて、癒される。本来の自分にもどるのだ。癒しの門だ。ようやくもどったな。ルシファー。」
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光の門
 大理石のような床に、自分の姿が映っているのに気づいた。
 自分のようで自分でないような、気高い瞳をした者がそこにいた。
 傲慢な瞳の底の方でいつも怯える暗い眼(まなこ)はそこにはなかった。
「ホロン。」
 ホロンも山羊の毛をまといひずめを響かせていた姿から、天使のような姿になっている。
 輪郭がぼうっと光り輝いている。
「光る者とは・・。こういうことか。」
「きみもそうであることに気づいたか。」
 そこにいる者はすべてそうして光を放っていた。
「ここが、天上というところか?彼らは天使か?」
「人はそう呼ぶ。だが、元々人はそうであった。ここから生まれていった。」
「地上へ?」
「そう。きみが生まれたように。」
「わたしは堕ちたのだ。自分の罪によって。だが、みなはなんのために?なんのために堕落しにいったのだ?地上はつらい場所だ。どうしてわざわざこの素晴らしい場所を捨てて地上へと向かうのだ?」
 ホロンは静かに唇を結んで、そしてそっと両端を上げた。
「堕落しにいったわけではない。乗り越えて進化するためだ。」
 ミカエルが静かに語った。
「ルシファー。きみは天に逆らったつもりだったろうが、実はまさに天の御心にかなった使命を負っただけだ。」
「どういうことですか?」
「進化は止むことはない。それが天が天である理(ことわり)だ。そして、その進化には二極がなくてはならぬのだ。」
「二極?」
「薄明るい光にほんとうの輝きを与えるのは闇だ。」
 その人は光りながら続けた。
「深い闇の深淵がなければ、全宇宙を生むほどの全き光はこうも輝かない。完璧なシナリオだ。きみはまだ、わたしが誰なのか気がつかないのか?」
 ルシファーは少し驚いて、まぶしくてよく見えないミカエルの顔をまじまじと見つめた。
 その人物でしかありえない微笑みをミカエルは浮かべた。
「カイル・・。」
 そして、フィオナを振り返った。
「そうか、きみは・・フェイ・・。」
 ここに至り、ルシファーはついに観念し、脱力するようにその場に膝をついた。
「わたしは知らずにそれを果たすために、放蕩を尽くしたということか?」
「闇すらも逃げ場がないのが、第12の門の向こうの天だ。」
 ルシファーは初めて畏れを抱いた。
「なんということだ。わたしの罪すら、すでにその営みに仕組まれていたというのか。わたしが抗った相手というのは抗うことすら許さないはかり知れない相手だということになる。」
「そういうことだ。」
 ルシファーはその意識が生まれてから、かつてなかったくらいほとばしるようにひざまずき、深々とその頭(こうべ)を垂れざるを得なかった。
「ああ・・その天に・・・帰依します。」

 ホロンが振り返って問うた。
「では、ゆくか?」
 何度この言葉を聞いたことだろう。
 ルシファーはうなずいた。
「きみが逆らい、きみが逃げ、きみが憎んだ天こそが、きみの源だ。では、ゆこう。」
 ルシファーが流す涙はころころと光って真珠となり、金剛石となった。
 ルシファーはそうして星を生んでいることを、胸で知っていた。
 天上人の調べは荘厳さを増し、雲が晴れてきたその頭上に、果てしなき幅と高さを持つ階段が現われた。
 だが、それを歩まずともルシファーとホロンは雲に乗り、進んでいた。
 巨大な階段は、ただ、その行く先を示す案内であった。
 天を見つめるルシファーの瞳に、百億の朝日のような光が差し始めた。
 ルシファーは瞳を失い、耳を失い、両の手と両の足と、生えたばかりの翼も失っていった。
 ホロンと融け合ってゆくのを感じた。
(12番目の門をくぐるのだな?)
(ああ。)
(不思議だ。自分というものを失ってゆくのに、少しも恐ろしくない。あんなにも失うことを恐怖した自分とはなんだったのだろう?)
(ひとつであり、万でも億でもある。その、万からひとつになるだけだ。どちらも自分であり、自分ではない。)
(得意のそれか。ここは、何の門というのだ?)
(光の門だ。)
(もう、対話もなくなるのだな。)
(そうだ。なぜなら。)
(ひとつ、だからだ。)
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進化のペダル
 かつてルシファーであり、かつてホロンであったものは、その源であるひとつの大きな光だった。
 その光には意志があり、呼吸があった。
 吸気によって輝きを増し、好奇心に満ちた呼気を吐いた。その営みが、久遠から永劫まで進化のペダルを漕ぐ。
 階段を降りてくる者がいた。
 美しい翼はなかった。
 水晶のような瞳をしたルシファーだった。
 少し遅れてホロンの姿があった。
 天上人の宮殿まで降りてきたふたりは、顔を見合わせると微笑みを交わした。
 ルシファーの周りに赤い竜が舞った。
 出迎えだった。
「では、ゆくか。」
 今度はルシファーがホロンに告げた。
「ああ。ではまた。」
 そう片手を上げてホロンは返し、微笑んだ。
 天使の翼を持たず、竜によって降りてゆくルシファーをミカエルは見送った。
「ここでの記憶はきみだけが持つ。あらたな進化の使命を背負い、天上の千日にあたる地上の一日を尊びたまえ。」
 ルシファーはうなずくと、静かにそこを発った。
 竜の背に風の流れを感じながら、ルシファーは懐かしき暗き光の苗床へと向けて降りていった。
 瞳の色に澄んだ力強い明るさと平穏な柔らかさを滲ませて。

 ・・・・・・・・

 街は暁の光に照らされ、蘇ろうとしていた。
 病院の窓辺で、ヨキはその空を望んでいた。
「明けの明星だ。」
 つぶやいた言葉を受ける者はいなかった。
 ベッドに横たわるエナタンにはいくつものチューブが取り付けられ、ただ無機質な機械音だけがその部屋に低く響いている。
 だが、振り向いたヨキの目は、微かな変化を見逃さなかった。
「エナタン!」
 3ヶ月もの間、生ける屍となって横たわっていた男の目が開いていた。
「わかるか!オレだ!ヨキだ!」
 叫ぶヨキに微かにうなずいた。
「先生!エナタンが!」
 病室を飛び出していくヨキの姿を目で追いながら、エナタンは深い息を吐いた。
(ホロン・・。)

 医師は驚いた顔をしてエナタンの元に来ると、色々と調べ始めた。
「意識がもどるとは・・。運の強い人だ。」
「もう大丈夫ですか?」
 ヨキの問いに、医師は慎重に答えた。
「どのくらい後遺症が残っているかはこれからです。」
 医師が立ち去ってからもヨキはエナタンの枕元から離れようとしなかった。
「大丈夫だ。きっとよくなる。ほんとにあんたは悪運が強い。オレが保証する。」
 そう言って笑う。
 エナタンは微かに笑った。
「分かるのか?そうさ!必ずよくなる。今までみたいにちょくちょく会いに来るからな。元気になってまた一緒に仕事をしよう。」
 エナタンはうなずいた。
 ヨキは感極まってエナタンの手を取って目頭をぬぐった。
(こいつはほんとうにお人良しだ。無理もない。ホロンなのだから・・。)

 エナタンの回復は目覚ましかった。
 言語障害も記憶障害も残らず、3ヶ月も意識不明で絶望視されていたとは思えない回復ぶりだった。
 医師が学会に報告するくらい、奇跡の回復とそれは言われた。
 車椅子に乗ったエナタンは、自分がビルから落ちてからの報道のされ方を、ヨキが持ってきてくれた新聞や雑誌を読んで知った。
 現場にいたカイルが疑われたことも知った。
 ヨキは少し黙ってエナタンの瞳をじっと見つめてから聞いた。
「何があった?」
 エナタンはヨキの顔を見て、そして静かに口を開いた。
「カイルを殺そうとした。」
 ヨキは椅子に座った。
「では。訴えられるのはあんたの方じゃないか。」
「そうだな。」
「フェイのことでか?」
 エナタンはうなずいた。
「もろもろだ。わたしは愚かだった。すべてわたしの犯した罪だ。償うつもりだ。カイルには謝りたい。」
 ヨキは目を見開いた。
「エナタン・・。」
 ヨキの方を向くエナタンの瞳に以前の暗さがないことにヨキは気づいていた。
「頭を打って人が変ったのか?えらく素直になったもんだな。」
「ヨキ。きみには礼を言いたい。ずっと言っていなかった。」
 ヨキはエナタンの前に手を出した。
「これは何本だ?」
 エナタンは高らかに笑った。
「2本だ。」
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再会
 ひと月もするとエナタンは車椅子にも乗らずに自分の足で退院した。
 殺到するマスコミ対策のために、記者会見が開かれることになった。
 マスコミ嫌いのエナタン・ソダーバーグが記者会見をすることも、転落の謎も世間の関心を集めていた。
 エナタンは慣れないフラッシュの中、ヨキにサポートされながら会見席に着いた。
 初めの問いがエナタンに投げかけられた。
「どうしてあなたはホテルの屋上から落ちたのですか?何があったのですか?」
 エナタンは少しの間を置いてしゃべりだした。
「・・。ここに、カイルの名誉のために真実を告げます。わたしはカイル・クロイツィフェルド氏をビルから落とそうとして、誤って自分が落ちました。」
 会見場にざわめきが起こった。
「それはクロイツィフェルド氏を殺そうとしたということですか?」
「そうです。」
「どうしてですか?」
 記者たちは口々に叫んだ。
「嫉妬や憎しみからです。」
「どういう憎しみなのですか?」
 場は急に温度を上げた。
「わたしよりも幸福にみえた。わたしにはかなわないものを持っていた。」
「ご自分の人生を棒に振っても、そうしようと思ったのですか?」
 エナタンの目は静かに小さく灯った。
「その時、人であることを忘れました。そして今、人として回復したいと、懺悔するために死の淵よりもどりました。カイル・クロイツィフェルド氏には心よりお詫びを申し上げ、罪を償うつもりです。」
「いつお会いになります!?」
「ソダーバーグさん!」
 記者たちが矢継ぎ早に問い質す中、ヨキはエナタンを立ち上がらせて退場させた。
 車の中で、エナタンは息をもらした。
 ヨキは聞いた。
「疲れたか?」
「ああ、肉体は重い。」
「?」
「人生も重いな。」
 ヨキはエナタンの肩をたたいた。

 目立たない小さなホテルの一室で、ヨキも同席してエナタンはカイルと再会した。
 カイルは少しやつれていたが、エナタンに自分から手を伸ばした。
「会見を見たよ。」
「すまなかった。」
 エナタンはカイルの手を取って頭を垂れた。
「いや。済んだことだ。それより体は大丈夫なのか?」
 エナタンは微かに唇の両端を上げてカイルの眼差しを見た。
「きみがなぜ微笑み、なぜ、たくさんの人とつながってゆけるのかがわかったよ。」
「?」
「わたしはきみの光がまぶしくて、自分の中の闇をきみに託してそしてそれを殺そうとしていた。きみではなく、自分を殺したかったんだ。自分の闇と折り合いがつけられていなかったんだ。きみや、ヨキや、フェイのサポートによってそれを乗り越えようとさせてもらっていたのにそのことに気づかず・・。」
 エナタンは言葉を続けることが出来ず、黙った。
 カイルはエナタンのあまりの変り様に、思わずヨキを見た。
 ヨキはうなずいた。
「きみがこのことで傷ついたこと、謝りたい。」
 エナタンはほんとうに真摯な態度を見せた。
 それはいまだかつて誰も見たことがなかった姿だった。
 立ってエナタンと向き合っていたカイルはソファーに腰を下ろした。
 言葉を発することをしばし止めて、エナタンが言ったことをかみしめているようだった。
「わたしもきみを憎んだ。」
 エナタンとヨキはカイルの顔を見た。
「わたしを引きずり降ろそうとする存在を、わたしは憎んだ。きみをとやかく言える立場にない。」
「きみが?」
 エナタンは目を丸くして問い返した。
「わたしだって、ただ、しあわせでありたかった。わたしが何を悪いことをしたのだと、きみや運命を恨んだ。だが・・。」
 カイルは自分の顔を両手でなぜまわすと、小さく息を吐いて笑んだ。
「今、まったく違う想いにとらわれた。」
 カイルは顔を上げてエナタンを見た。
「きみはわたしが今まで感じたことのない感情を味わわせてくれた。もちろんきみがこうして謝ってくれたからわたしは心を入れ替えることが出来たのだが、何と言ったらいいのか・・。とにかく握手しよう。」
 そう言って微笑んだ。
 殺されそうになった者と、殺そうとした者が、固く握手を交わした。
 ヨキは、自分が今この瞬間ここにいるこの幸福に感謝した。
「めったにない現場にいるな。オレは。」

「フェイは元気か?」
 エナタンはもうひとつ気がかりなことを尋ねた。
 カイルは苦笑した。
「まあ、こういうことがあれば元気とはいかないが。きみの会見を見て、まずまずだ。」
「ふたりでしあわせになってくれ。」
 カイルとヨキは黙ってエナタンを見た。
「わたしはやることがある。」
 カイルと別れて、ヨキはエナタンに尋ねた。
「やることとはなんだ?」
「まずは罰を受けて、それからだ。」
「カイルに怪我はなかった。カイルは訴えないんだ。だがきみはすでに世間の冷たい目によって罰せられた。それが罰といえば罰だな。」
「償うさ。」
「何をするって?」
「書くんだ。」
「何を?」
「わたしが見て来たことを。」
「何を見て来たって?」
「12の門だ。」
「?」
「わたしはそのために生まれた。」
「何のことだ?」
 エナタンはただ微笑んだ。
 だが、ヨキはその微笑みを遠い記憶のどこかで見たような気がした。
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全き円
「エナタン!」
 ヨキの上ずった声が、玄関の外からしてきた。扉を勢いよく開けてヨキは叫んだ。
「これはなんだ!」
「新作の初稿だ。」
「そんなことわかってる!いったいこれはなんだって聞いてる!」
「なにかまずかったか?」
 エナタンは怪訝な顔をして問い返した。
「そうじゃない!素晴らしい!」
 ヨキは朝日のように笑った。
 ソファーに飛び込むように座ると、原稿を自分の手の甲で打鳴らし、興奮気味に語った。
「こんなものは読んだことがない。いったいどこからこんなものが出て来た。今まで隠してたのか!ああ、そうか、やっぱり落っこちたことで変ったんだな?」
 エナタンはヨキがはしゃぐのを、微笑ましく見つめていた。
「だから、言っただろう?見て来たことを書いている。」
 ヨキは一瞬黙って、呼吸を整えてから聞き返した。
「見て来た?」
「言っただろう。意識がない間に見て来たことをただ書いている。」
「・・それは夢・・か?」
 エナタンは、立場が逆になっていることに可笑しそうに含み笑いを浮かべながら答えた。
「夢・・。そう思いたければそうとってくれてもいい。」
 ヨキは組んでいた足をほどいて座り直した。
「その・・。聞いてもいいか?」
「ああ。」
「意識がない間これをずっと見ていた、と。」
「そうだ。」
「その・・ここに出て来るルシファーというのはきみだとすると、ホロンというのは・・。」
「きみだ。」
「・・。」
 ヨキは絶句し、なぜか声をひそませて問うた。
「オレ?」
「地獄も、天界も、ここに生きている者に信じろと言っても無理だしその必要はないかもしれない。だが、きみがむやみにわたしを支えようとしているそのわけを考えたことはあるか?」
「・・。」
「いいんだ。きみはきみで。ホロンでなくて。だが、理屈の通らないところに、生まれる前の理由もあったりもする。わたしはそれが腑に落ちて変った。というか、我に返ったんだ。理由が明らかになった方が進化しやすいのならその扉が開かれることもある。そのためにわたしは返された。」
「返された?」
「第12の門から。」
「そうだ、ここにはその第12の門の向こうは書かれていない。それは?」
 エナタンは笑んだ。
「これから書く。」
 そう言ってエナタンは机に向かい直した。
 ヨキはまだ問いたいものが自分の中にあるのを感じていたが、それが何か言葉に出来ないでいた。
 エナタンの書斎で、エナタンのペンが走る音だけがしていた。
 ヨキは窓辺から美しい外の樹木を見つめた。
 時のない時が過ぎて、窓の外にあの時の星を見つけてヨキはつぶやいた。
「明けの明星だ。」
 エナタンは振り向いた。
「きみが目を覚ました時、この星が出ていた。」
「・・。ああ。わたしにゆかりの深い星だ。」
「きみは本当にあれから別人のようだ。オレは誰と話しているのか、時々分からなくなるよ。」
 エナタンは思いやり深い目をしてペンを置くと、窓辺のヨキのそばに立った。
「きみをとまどわせてすまない。だけど、これもほんとうのわたしなんだ。」
「変な話、前のあんたも好きだったぜ。」
 ヨキはほんの少し淋しそうに、冗談めかして笑った。

 ・・・・・・・

 今そこを表現することはまったくもって不可能のように思える。
 なぜなら、言葉とはなにかを切り取るものであり、水面下の膨大な氷山を表現するにはあまりにも小さい氷のひと粒の原子であるからだ。
 そこはとうてい切り取ることのできるところではなかった。
 わたしとホロン。もっと言えば、生きとし生けるものたちは、星も宙も含めてその光の門の向こうに在るときひとつだった。
 門といっても地続きだ。
 そこから明らかにそうであるというだけで、たった今この地上にいるときですら、その門の内側とは地続きなのである。
 その門を開ける鍵はみな持っている。
 わたしはそれを奥深くしまい忘れ、盟友によって手を添えられ、ともに開いた。
 ホロンはわたしであり、わたしはホロンだった。
 ミカエルもわたしであり、わたしはミカエルだった。
 この光の門の向こうにある全き円とは、「了」、であり、「無言」であり、「満」であり、「創始前」だ。
 「完璧な静」であり、「大爆発の予感」でもある。
 ここ独特の、そして普遍的な、そして最も根源的な法則は、ただ支えあい、進化することだけである。
 闇すらもここは支える。
 そして闇に支えられている。

 ただ、讃えるよりない。
 ただ、捧げるよりない。

 闇を負うて、
 張り裂けるほどの痛みを負うて、
 この円に融ける。
 光となる。
 
 約束を、胸に。

 ・・・・・・・
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