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深淵
 地上でいうなら何日が過ぎただろう。
 たしかに肉体の自分ではないことは充分すぎるくらいわかってきていた。
 腹が減るという感覚を覚えることはない。
 だが、エナタンはある感情に苛まれてどうにもたまらなくなってきていた。
 イライラと崖のテラスを歩き回る。
「少しは静かに座ったらどうだ。」
 ホロンが横になったまま、可笑しそうにニヤリと笑う。
「放っておいてくれ。」
「他に何か言いたいことはあるか?」
「畜生!どうしてこうイライラする?」
 ホロンは大きく肩を震わせて笑いながら起き上がった。
「少し正直になったらどうだ?」
「何のことだ?」
「進みたくてしかたがない自分に気づいているのか?」
「何だって?」
 ホロンは小さく嘆息するとエナタンに向き合った。
「初めに言ったはずだ。きみが望んだのだと。」
「いや、オレは行きたくない。」
「きみが満たされるためにここを進むしかないことを一番よくわかっているのはきみだ。わたしではない。」
「なぜ、そんなことが言える!オレの何を知っていると言うんだ!」
 ホロンは笑んだ。
 エナタンは今と同じことを言って、同じように笑んだ者があったことを思い出した。
「ヨキ・・。」
 ホロンがまとう山羊の衣がエナタンの心の眼によってようやく融かされた。
「おまえは、ヨキか!」
「やっとわかったのか。」
 エナタンは座り込んだ。
「どういうことだ?なぜヨキが・・。」
「話が逆だ。わたしがヨキになったのだ。きみがエナタンになったために。」
「わたしがエナタンになる前から、おまえはわたしとともにあり、地上でも・・。」
「地上と天上を分けるな。天上がさらに進化するために地上という場は設けられた。物語は続いているのだ。」
「だからオレのことをむやみに知っているような顔をしていたんだな?」
「ヨキの記憶にホロンもルシファーもない。だが、きみのことは“むやみに”気になり、支えることを使命とした。」
「それだ。なぜおまえはオレのことをむやみに支えようとする?それが分からない。」
「その当たり前のことを忘れたから今きみはそれを取り戻しにゆこうとしている。」
 ホロンは風に手をかざした。
「わかるか?この流れが。この風が向かおうとしているところが。身の内のサタンエナジーに囚われている時、これに気づかない。世界は刻々とこの流れに向かっている。なぜならそこに目指すものがあるからだ。」
 ホロンの穏やかな語り口にエナタンの心はようやく鎮まってきていた。
 自分の頬にさやさやと微かなその風の流れをあらためて感じた。
 崖の淵に静かにひざまずいた。
「・・恐ろしい。」
「かまわぬ。恐ろしいままに進むのだ。」
「それでいいのか?」
「傲慢によって落ちたきみには、恐ろしさこそが救いだ。怖れを知ったことが始まりではないか。」
「なんの期待もせずに・・赤裸々にあるのだな?」
 ホロンは微笑んだ。
「無防備に。そうある時の胸を感じよ。」
 エナタンは俯いた。
「痛むか?」
 頷いた。
「大丈夫だ。わたしもともにそれを感じている。決してひとりにはしない。そこから目を逸らすな。」
 エナタンはホロンの無限大の母性と父性に支えられて、ひとりでは決して向き合うことの出来なかった自分の痛みに触れた。
 ひりひりと切々とそこには置き去りにされてきた痛みの数々が眠っていた。
 傷つけられたように感じたこと、傷つけてそれを見ないようにした時の自分の傷、ささくれ立つそれらは泣きながら怒りをぶつけて来た。
 無視されてきたそれらが復讐するがごとく声高に抵抗し、やたらに自分を大きく見せ、頑丈な自我で防衛し、他の上に立って他を虐げることでその存在をアピールし続けて来たことが分かった。
 自らの傲慢のほんとうの姿とは、かくも哀れだったのか。
 そしてそれによって虐げられてきた他も哀れだった。
 涙がとめどなくエナタンの頬を滴り落ちた。
「どうしたら許されるというのだろう?オレは他人にも自分にも酷くあり続けて来たというのか?救いようがないではないか・・。」
 ホロンはエナタンの肩を抱いた。
 ともに泣いていた。
「きみはその傲慢を抱いて飛べ。きみのものだけではない。すべての人間のそれを背負い、抱く心でこの闇に融けよ。わたしもゆく。」
 エナタンの瞳からようやく曇りがとれた。
「わかった。それならばゆく。それがオレの生の意味だというのなら。」
 記憶にある限り、今まで祈ったことはなかった。
 だが、見たことがないほどの底知れぬこの闇の深淵と、自らが背負うものの大きさに、思わず手を組んだ。
 ホロンの顔を見た。
 ホロンは明るく頷いた。
「ホロン・・。ありがとう。・・言っていなかった。」
 それだけつぶやくと、エナタンは何かが抜け落ちた幼な子のような顔をして小さく息を吐き、そして、全てを預け切り、ただ、底知れぬ深淵へと崖の縁を蹴った。

 永遠の時が過ぎるようでもあり、一瞬のようでもあった。
 宙を真っ逆さまに落ちてゆくエナタンに、天から落ちた時の恐怖はなかった。
 静かな時のない時の中にあらゆる生の瞬間が走馬灯のように走り、エナタンはそこを駆け抜けたただの稲妻だった。
 恐怖が抜け落ちたエナタンは、大きな闇の揺りかごに向かって赤子のように安らかに身を任せ、ただ空を切り続けた。
 寄る辺なき身はもう、何も望まず、何も必要としなかった。
 永劫の果てからの罪業を懺悔し尽くし、全て闇の向こうへと任せ切った。

 終わりも始まりもなく。
 ただ。

 すると、闇は柔らかくエナタンを迎え入れた。
 地平まで継ぎ目なく覆われた、大いなる者のそれはビロードの衣であった。
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