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コヨーテ
 その男はコヨーテのような胸の内を抱いて月夜の惑星を歩んでいる。
 果てしなき遥か永劫のかなたから、エナタン・ソダーバーグはそうであったように感じている。
 はかり知れぬほどの切なき暗闇。コヨーテはそれが哀しくて吠えるのか。哭くのか。
 時折、無性に破壊してしまいたくなる。自分に触れるものを。自分を愛そうとする者を。そればかりか自分自身さえも。
 自らのその衝動の源に未だ心当たりがない。
(もって生まれたとはいえ、重き荷だ。)
 月の光を見上げながらひとつ、息を吐いた。

 独特の文体を持つ作家としてソダーバーグは早くから一部に評価されていた。
 その独自の世界が皮肉にもこの月も凍る深夜のような胸中から来ていることに、吐息が生まれる。
 彼が彼であるためにまるでそれはそうでなくてはならないかのようだった。
 ニューヨークにはマンハッタンのような摩天楼の森もあるが、その島から離れれば数少なき彼のようなコヨーテが棲息できる静かな森もある。
 エナタンはそこに小さな家を構え、10年余り言葉を綴っていた。
 もうじき40に手が届こうとしていたが未だ独り身で、ガレージに住み着いた小さなコウモリが彼の家に呼吸する彼以外の者だった。
 エナタンの才能を理解し、ここ10年来の伴走者として、ヨキ・ホーレデンという編集者がいた。
 エナタンが厳冬の三日月なら、彼は陽春の木漏れ日だった。
 エナタンはヨキがおそらくは自分以上に自分を理解しているのが、出会った当初から今に至るまで不可解であり続けている。
 例え未来を嘱望されようと、自らの内がついぞ満たされないことをエナタンは生まれ落ちた時から知っていたように思う。
 どんな賛辞もエナタンにとっては隙間風のように過ぎてゆく。
「なぜなんだ?いったい何を望んでいるというんだ。」
 コウモリに問う。
 午後のコウモリは深い眠りに落ちていた。
 ヨキが来る日だった。

「この感じはいい。琥珀色な感じ。これはあるな。」
 ヨキはいつものように原稿に素早く目を通すと駒鳥のように笑った。
「あんたが言うとまるで平和なロマンスみたいに聞こえるな。これはスリラーだ。」
 ヨキはにやりと笑って親指を突き出した。それから少し黙って、言った。
「月間ミステリーの編集長のことなんだが。」
 エナタンはあからさまに嫌な顔をしてみせた。
「やつとは話すことはない。」
「そうもいかないだろう。アレクを怒らせて得なことは何もない。どうしてそこまで嫌うんだ?」
「やつはオレにもう少し大衆寄りの文を書けと言った。コウモリに上を向いて寝ろというようなもんだ。何もわかっちゃいない。編集長だと?聞いてあきれる。」
「よせ。権限があるのはアレクだ。きみにここ5年ヒットが出ていないから彼はあせってるんだ。だが・・。」
 エナタンの肩をたたいてヨキは続けた。
「きみには根強いファンがいる。そして圧倒的な才能もね。5年や10年がなんだっていうんだ。きみが書くものは何十年、いやそれ以上残っていくものだ。消耗品じゃない。」
「だが、今度あいつの顔を見たらオレは何をするかわからない。」
「エナタン。2度とアレクを殴るなよ。」
 ヨキは両手でエナタンの肩を掴んで自分の方に向かせた。
「何をあせっている?」
 エナタンはヨキから視線をはずした。
「・・・。」
「初めて会った時からそうだ。子供の頃からそうなのか?」
「オレにはやることがある。」
「?・・やっているじゃないか?」
「そうじゃない。わからない。だが、何かがあるんだ。」
「そのあせりがアレクや他の編集との軋轢を生むのか?」
「・・。」
「だったらそれを書け。わからないなら書いてみろ。書くことでわかるかもしれないじゃないか。」
 エナタンは苦し気に呼吸した。
 ヨキは小さく息を吐いて、話題を変えた。
「ところでパーティには出ないのか?」
「出る義理はない。義理があったとしても出ない。」
 同じ出版社から本を出しているカイル・クロイツィフェルドの大衆文学賞受賞記念パーティだった。
「フェイも来る。会ってないんだろ?もう2度と会わない気か?」
 エナタンは黙った。
 フェイとは一度暮らしたことがある。だが、その時悟った。エナタンは誰かを愛そうとすることに存在の恐怖を感じてしまう。そうするために生まれついていない。
 その時もそうしてフェイとは終わった。
 だが、ほんとうにそうなのか?
 その時、胸に思いも寄らぬなにかが燕のように走り、それは地平線のかなたに湧く雲のように形をとり始めた。
 返事をしないままヨキは帰った。
 エナタンは窓外の暮れゆく蒼穹に瞳を預け、その雲が湧き続けるのに暫し身を任せ続けた。
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パーティ
「驚いたな。」
「エナタン・ソダーバーグじゃないか。」
 パーティ会場では小さなさざめきが起きていた。
 あり得ないものを見るような響きを含ませたその声の持ち主たちの視線は、エナタンの歩みとともに会場を滑っていった。
 ヨキが笑顔で迎えた。
「ようこそ!歓迎だ!」
 エナタンはこの場の主のところへまるで宿題を済ます学生のように直行して儀礼的に握手の手を差し出した。
「おめでとう。」
「ありがとう。」
 カイルは心のこもっていないエナタンの乾いた挨拶にも器用な笑みで返し、大人の面目を保っていた。
 まるで義務は済んだと言わんばかりに、エナタンは衆目の届かぬような一隅に、バーボンを連れとしてひとり下がった。
 そして白頭鷲が獲物を待つようにしんとそこで立ち尽くした。

 人々はすぐにエナタンの存在を忘れ、それぞれのゴシップに興じ始めた。
 ヨキはさまざまな人々の接待をしながら、エナタンが来たほんとうの理由が現われることをエナタンとともに期待した。
 だが、その期待とは裏腹にすぐにエナタンは自分が会いたくもない人物の顔を拝むことになった。
 アレク・ヒューグレイは、会場に足を踏み入れてすぐにエナタン・ソダーバーグの存在に気づいた。
 エナタンにも分かるような大きな嘆息を吐いて、ゆっくりと近づいてきた。
「エナタン・ソダーバーグ。少しは大衆に近づくこともし始めたかね?」
 エナタンは自分の目盛りが跳ね上がるのを静かにこらえた。
 ヨキがこちらを見ていた。
 アレクはうなずいて続けた。
「いい傾向だ。きみが嫌う大衆こそがきみの救い主だ。ボーダー社は一部のマニアのための出版社ではない。きみがその世界に居座り続けるなら違う窓口に案内してもいいと思っていた。まあ、がんばりたまえ。」
 エナタンは無言のままアレクを見送った。
 今日の目的がなければ、手にしたバーボンを浴びせていたところだった。
 
 その時、エナタンの目的が現われた。
 フェイ・ダマスカスは自分の担当するエッセイストと連れ立ってその細い足首で赤い絨緞を踏みしめて入って来た。
 くるぶしにアンクレットが揺れる。
 エナタンはバーボンをあおった。
 フェイの足首に煌めくのは彼が彼女に贈った唯一のプレゼントだった。
「まだそれをしてるのか?」
 エッセイストがカイルの元へ行くのを見送って、フェイはその声に振り返った。
「エナタン。」
 フェイの端正な顔に微妙な表情が現われた。
「あなたが来てるなんて。」
「そういうこともあるさ。・・まだしてるんだな。」
 エナタンは顎でそれを指した。
「わたしはマゾヒストだって思うわ。教訓として自分に鞭をくれるようにしてただけよ。結局あなたの氷壁にはかなわなかったってね。思い上がってたの。でもそれも今日で最後。この足枷から卒業するわ。」
「フェイ。」
 カイルの声がした。
「今から紹介する。こっちへ来てくれ。」
 フェイは微笑むとカイルの元へ歩んだ。
 司会者が衆目を集めた。
「みなさん。この記念すべき今日に、もうひとつのグッド・ニュースをお伝えしましょう。フェイ・ダマスカス嬢こちらへ。」
 エナタンは、この場に居合わせたことを後悔した。
 カイル・クロイツィフェルドの受賞記念パーティーは、彼の婚約発表パーティーでもあったのだ。
 そして、その相手とはエナタンがこの日、ここへ来てもう一度やり直そうとしたフェイ・ダマスカスだった。 
 ヨキは絶句し、そして小さくうめいた。
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転落
 パーティー会場を抜け出し、同じホテルのバーにひとり向かったエナタンを後ろから呼び止める者がいた。
 ヨキだった。
「すまない。エナタン。知らなかったんだ。」
 エナタンは答えた。
「あんたがあやまることじゃない。のこのこやって来たのはオレだ。オレはこれを見に来たんだ。自分の莫迦さ加減を笑うためにね。」
 エナタンとともに無言で横を歩き、バーの止まり木で横に座ろうとするヨキに告げた。
「あんたは接待があるだろう。行け。」
「接待?それがどうした。オレたちは友人じゃなかったのか?」
 小さく笑うとエナタンは嘆息した。
「友人だろうと神だろうと、いてほしくない時はある。ああ、神?そんなものはオレは信じないがね。」
 ヨキは黙った。
 そしてエナタンの肩をたたくと、しかたなく席を立った。
(しかもカイルだ・・。)
 エナタンは内に湧く怒りのようなものでグラスを持つ手が震えるのを感じた。
 カイルとはエナタンが作家になった頃からの因縁があった。
 ミステリーの権威ある賞を取ってデビューしたエナタンと同じ頃に、カイルは大衆文学の賞の佳作を取って出発していた。
 エナタンと違って人づきあいの器用なカイルは人脈をどんどん拡げ、数多くの出版社から本を出すようになり、いつの間にかニューヨークで最も売り上げのある作家として有名になった。
 エナタンはそんなカイルをずっと下に見てきた。そしてカイルはエナタンがそう思っていることを知っていた。
(才能のかけらもないくせに。口八丁でのしあがった守銭奴め!オレを小馬鹿にして笑ったな。フェイを手に入れてオレに勝った気か?)
 バーテンが新しい杯を出すのを躊躇するくらいエナタンはグラスを空けた。

 夜も更けた頃、何人かと連れ立ってバーにやってきたのはカイルだった。
 カイルはすぐにエナタンに気づき、微かに嘆息するといつもの笑みを浮かべた。
「エナタン。今日はありがとう。きみが来てくれるなんて思わなかったよ。」
 振り返ったエナタンの顔を見て、カイルの連れたちは思わず後ずさりした。
 そこには人ではない暗い深淵がぽっかりと口を開け、瞳から妖しい炎が立ちのぼっていたのだ。
 カイルは一瞬絶句した。
 エナタンはカイルを見て笑った。
 その笑顔には人を掴んで離さない魔力のような力強さがあった。
「ちょうどよかった。あんたに話がある。」
 エナタンは少しふらつきながらカイルを手招きした。
 カイルの袖をとって首を横に振る連れにうなずきながらも、カイルは魅入られたように素直にエナタンについてひとりバーを後にした。
「話ってなんだ?」
 エナタンはエレベーターを途中で乗り継ぎ、従業員用に乗り換えた。
「どこに行くんだ?」
「ふたりだけでじっくり話せるところだ。」

 屋上に出た。
 月が冴えざえと夜空に貼りついている。
 雲が月明かりを受けてその輪郭を浮かび上がらせながら細くたなびいていた。
「おめでとう。」
「・・。」
「今のはフェイの分だ。言ってなかった。」
「ありがとう。」
 いぶかしく思いながらもカイルはいつもの上等の笑顔を浮かべた。
 すかさずエナタンは牙を剥いた。
「おまえの笑顔は反吐が出る!」
 カイルは素早く自らの心身をガードした。彼が生きてこれたのはその防御本能に優れていたからだった。
「それが言いたかったのか?」
 エナタンは・・いや、コヨーテは冷たく笑った。
「いいや。おまえの笑顔を二度と見なくて済むようにするためにここへ連れて来た。」
 エナタンはカイルに掴み掛かると、金網の破れ目からカイルを屋上の淵へと引きずり出した。
 このホテルはエナタンがミステリーを書くために泊まり込んだホテルだった。
 書けない時にここを見つけて月を見上げたことがあった。
 そしてそこに破れ目があることも知っていた。
「やめろ!何するんだ!放せ!」
 カイルは絶叫した。

 10階建てのビルの屋上から男が落ちた。
 その男は1階の車寄せの丸いシート製の屋根に落ち、即死は免れた。
 翌日の新聞にそれは報道された。
『ミステリー作家エナタン・ソダーバーグ、ビルから落ち意識不明の重体』
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ホロン
 薄暗がりの続く、まるで雲か霧の中にいるようだった。
 エナタンは眠っていた。
 眠っているはずなのに意識があった。
(・・ここはどこだ?オレは何をしている?)
 時がなかった。
 永遠のようでもあるし、一瞬のようでもあった。
 意識もあまり動かなくなり、その闇の霧に融けてしまいそうになる頃、エナタンは自分に呼び掛ける声を聞いた。
[では。ゆくか。]
 自分が霧の中に立っているのを感じた。
「どこへ?」
[こちらへ。]
 闇の果てがうっすらとほの明るいのに気づいた。他にはなにも目印となるものがなかった。
 エナタンはそちらに向かって歩みだした。
「あんたは誰だ?」
 返事はなかった。
 歩いているという感覚もなかった。ただ、意志がそう思うとそちらへと行っているのだった。
 明るい方と思ってやってきたが、気がつくと荒涼たる岩山の続く大地に立っていた。
 だが曇天は昼とも夜ともつかぬ薄闇で、人の気配がまるで感じられない。
 そこは、まるで地上という感じを受けなかった。
「誰が呼んだ!ここはどこだ!」
 風は吹いていた。
 風を感じることができることに少し心が落ち着いてきたエナタンは自分の後ろに気配を感じて振り返った。
 そこには男が・・正確にいうと男のようなものが立っていた。
「ホロンと呼びたまえ。案内人だ。」
 彼は言った。
 エナタンはホロンの足に目が釘付けになった。
「あまり気にするな。それはたいしたことじゃない。」
 ホロンの足にはひずめがあった。
 まるで山羊が二本足で立っているようなその男は、紅い髭を蓄えていてエナタンと同年輩に見えた。
「どういうことだ。ここはどこだ?」
「気にするな。ただ進め。」
「オレにはいったい何があった?」
「落ちた。そして、ここにいる。そして、進む。ではゆくぞ。」
「待ってくれ!オレはもしかして死んだのか?ここは地獄か?」
「ゆくぞ。門はまだ遠い。」
 ホロンは歩き出した。
 エナタンはしかたなく後について道なき岩山を下り出した。
「どこに向かうんだ。何の門だ?どうしておまえが案内するんだ。」
 ホロンは答えなかった。
「死んだら終わりなはずだ。だったらここはなんだ?夢か?そうだ。オレは夢を見ているんだ。そうだな?」
 エナタンは少し希望を持ってそう結論づけた。
 ホロンは立ち止まって振り返ると少し同情するような瞳で嘆息した。
「たいがいの者はそういう。そうでない者もいるが。」
 エナタンは黙った。
「土台、理解することではこれは超えてゆけぬ。だいたいわたしの足を見てきみはどうした?理解することを止めただろう?夢ならばそれで解決される。夢は不可解なものだからだ。だが、これはきみのいう夢とは違う。」
 ホロンは情けを見せた。
「だが、夢といってもいいかもしれない。きみがそうしたいなら。とにかくゆこう。」
 エナタンは無駄口をたたくのを止めた。
 自分に起こっていることはこれが全てだ。だったらただ、前へ進むしかない。
 岩山を下ると、そこには直径が2〜3kmありそうな巨大な穴が垂直に口を開いていた。
 近づいてみるとその穴の岩壁にはひと一人通れるほどの下る道がうがたれている。だが、柵も手摺もないその細い石段のような道を見て、エナタンは目眩がした。
 道の脇は絶壁で、その垂直の穴の底は深すぎてその深遠は闇のはるかかなただったのだ。
「ここを下るのか?」
「その目眩は、ただの肉体の記憶だ。自分をしっかり持ちたまえ。きみは肉体ではない。」
 その穴の底からは冷気が吹き上げてくる。
 エナタンは不思議に思っていた。
 初めに闇の霧を光の方に向かった時は、歩いている感覚はなかったが、今肉体でないとホロンに言われるこの体には、風も、冷たさも、岩の感触も感じられるのだった。
 やがてそこを下るのにも慣れてきた。
 冷気と恐怖には震えがやはり来たが、足を前に出す作業にだけ集中している時、それは薄れた。
 永遠につづくかに思われたその行程は、ふいに途切れた。
 岩壁に横穴が開いていて、ホロンはそこでエナタンが追いつくのを待っていた。
 奥まると広くなっているそこには、何人かの人間がいた。
 気がつくとホロンの姿が見えない。
 エナタンは一番近いところにいた男に話しかけた。
「ここはいったいどういうところだ?あんたはなぜここにいる?」
 しゃがみこんで俯いていた男は顔を上げた。
「わからない。ただ、案内されて下っただけだ。」
「山羊のような男に?」
「なんのことだ?わたしはわたしの死んだ兄に連れて来られた。」
「じゃ、やっぱりオレたちは死んでいるのか?」
「さあな。おそらくそうなのかもな。」
「覚えていないのか?何があったか。」
「長く患っていた。意識はなかった。気がついたらここにいた。」
 隣の老女にも聞いた。
「あんたは死んだのか?」
「そのようだね。これから地獄へ向かうのさ。」
「この穴の底は地獄なのか?なぜ分かる?」
「あたしは高利貸しをしてた。さんざん人を泣かせてきたさ。地獄へ行かないでどこへいくんだ?」
「あんたもか?」
 男に聞いた。
「戦争で数え切れない人間を殺したからな。そりゃあ、地獄に行ったって仕方ないだろう。」
「あんたもだろ?」
 老女が言った時、エナタンは思い出した。
(カイル・・。)
 ふらついてエナタンはそこにしゃがみこんだ。
(そうだった。オレは・・。カイルを殺そうとして・・。)
「ゆくぞ。」
 ホロンの声がした。
 また下ることが始まった。
 エナタンの膝はがくがくと小刻みに震えていた。
 ホロンは振り返った。
「思い出したか?」
 そして前を向く。
「色々と思い出すことはまだある。」
 ひとつ思い出したなら、後は津波のように押し寄せてきた。
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第1の門
「わたしは受賞作よりもこっちの方があなたらしいと思うわ。」
 フェイは数々の作品の中で、エナタンがそう思っていたのと同じことを口にした。
 エナタンは今までヨキすら口にしなかったことをフェイが口にしたことで、フェイというひとりの女性に興味を持った。
 ヨキが紀行作家の取材に付き合ってキューバに旅立って3ヶ月。エナタンの担当は同じ出版社の編集のフェイ・ダマスカスが代役を務めていた。
 ヨキの代役は務まる者が今までいなかった。たいていの者は3日で音を上げてその担当を降りる。
 エナタンは気難しい作家で通っていた。
 フェイはエナタンがとりつくしまがないのを気にしなかった。平気で自分の言いたいことを言って、勝手に家に長居し、コウモリを手なずけていた。
 ヨキが帰った頃、フェイはエナタンと暮らしていた。
 ヨキは口笛を吹き、驚きを隠さなかった。だが嬉しそうに言った。
「きみか。我がコウモリを射止めたのは!オレは嬉しいよ。エナタンを文章以外で理解する仲間ができた。」
「オレの何を理解している?」
 エナタンは無機質な声で振り向かずに言った。
 ヨキとフェイは顔を見合わせて笑った。
「なあ。」
 ヨキが言うのに、フェイはうなずいた。
「あなたの闇が、他人にないと思う?だからあなたの本が売れるのよ。」

 だが、フェイとエナタンは数々ぶつかった。
「あなた、わたしがここにいるのが見える?わたしは透明人間じゃないわ!息をして、哀しみ、傷つくいきものよ。テーブルでも椅子でもないわ!」
「オレはきみに頼んでいてもらってるわけじゃない。出ていきたきゃいつでも出て行け。」
「エナタン。あなたの抱える恐怖は誰でも持ってるのよ。あなたはそれを見ないふりをしないだけ。わたしはそれが切なかった。独りで荒野に立とうとしてるあなたが。だからここにいるの。」
「きみを愛せというのか?」
「わたしじゃなくてもいい。世界を愛してほしいだけ。」
 世界をどうして愛せる?
 エナタンは胸の内でつぶやいていた。
(なぜならオレは、許されぬほど醜いのだ。存在することすらほんとうは許されていないはずなのにここにいる。これは罰か?一体なぜこんなにオレの立つところは不安定なんだ。きみどころか、自分すら背負うことが恐ろしい。)
 フェイの勧めでセラピーを受けたこともあった。
 だが、セラピストが望むような幼児体験もなく、エナタンには満足のいくカルテは出来なかった。
 そしてついにあの日。
 エナタンはフェイを深く傷つけ、彼女は去った。
「おまえはこの難しいエナタン・ソダーバーグを変えることが出来た女になりたいだけだ。オレを愛しているんじゃない。おまえだって自分のためにオレに近づいたんじゃないか!」
 フェイはしばらく絶句して自分の闇と対峙した。エナタンは自らとともに闇を見ることをフェイにも強いた。
 フェイはそれでもその闇の向こうを望もうとした。
「愛される資格がないと思ってるの?愛されることに資格が要るの?」
「そうだ。オレにもおまえにもそれはない。」

 だが、どうしてエナタンは再びフェイに会おうとしたのだろう?
 あの時走った燕の正体はなんだったのか?
「エナタン。」
 呼び掛けられてエナタンは自分が足を止めて冷気に吹かれているのに気がついた。
 周りの闇はますます濃くなり、鼻の先も分からない。
 天空はるかに丸い月のように空が開いていた。闇の中でさだかには分からなかったが、穴の底へと辿り着いたようだった。
「第1の門だ。ゆくぞ。」
 ホロンが向かった岩の壁は触れもしないのに音もなく開いた。薄明るい微かな光がそこから漏れた。
 鍾乳洞のようなそこは鍾乳石のような石が林立し、ぼうっと燐光のように発光してゆく道を照らしている。
 横穴がさらに奥へと続いていた。
 微かに何かが聞こえてくる。
 やがて気づいた。
 それはうめき声のようなものだった。
 それは一人ではなく、歩を進ませるにつれ何人もの声が合わさってくる。
 あらゆるミステリーやスリラーを書いてきたエナタンだったが、それは想像を超えていた。
 思わずホロンとの距離を縮めた。
 ホロンはまるで朝の散歩でもするかのような軽き足取りでひずめを響かせている。
「なんだここは。やはり地獄か?」
「地獄というのはこんなものではない。言っただろう?ここはまだ第1の門だ。」
「第1?いくつ門があるんだ?」
「12だ。しかもそれはわたしが知っている限りでその先は知らない。」
 エナタンは思わず立ち止まり、そして叫んだ。
「それを全部行くのか!?」
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自業自得
「きみが渇望するからだ。」
「オレは望んでいない。」
 ホロンは振り返った。
「どんなこともきみを満たすものはなかった。そうだな?」
 エナタンは絶句した。
「なぜならきみが望むものは第12の門の向こうにあるからだ。だから今きみはここにいる。きみが望んだからだ。わたしはただ忠実にそれを遂げるための案内をする。」
「なぜ?オレのためになぜおまえはそんなことをする。なんのために。」
「思い出せ。」
 そう言ってホロンは笑みを浮かべた。
 そして歩み出した。
(どこかで見たことがある。今の笑みは・・。)
 エナタンはその笑みに微かな救いを感じたが、それとは裏腹にからだ全体が重だるく気が遠くなるような気分だった。
 座り込んでしまいたい。
 ここで少し眠りたい。
 少しだけ。
 頼む。
 少しだけならいいだろう・・。
 崩れるように膝をついた。
 その時、ホロンのひずめがエナタンの横っつらを蹴った。
「彼らのようになりたいのか!」
 はっとしてホロンが指した方を見た。
 ぼんやりと薄明るく光っている鍾乳石は、よく見ると人の形をしていた。
 座り込んだ人間が石になっているのだ。だが、それはただの石ではなかった。呻いている。
 眠りを貪りたくて座り込んだのに、進むことも出来ず、動くことも出来ず、それは苦しみとなって彼らを縛り込んでいた。
「・・なんだこれは?いったいどうしたんだ?」
 殴られた頬を押さえながらエナタンは石柱の列を凝視した。
 ホロンは厳しい顔をして腕を組んでエナタンを見下ろしていた。
「怠惰の門だ。怠惰にとりつかれると、こうして動けぬ石となって呻き続けるのだ。だが進みたいという意志は消えない。だからこうしてぼうっと灯っている。進みたいのに進めないという苦しみに苛まれたいか?誰でもない、自分で自分の首を締めているのだ。自らを貶めるな。」
 エナタンは立ち上がった。
「行くぞ。」
 ホロンがゆくのに従った。
 奥まるほど見渡す限りに石の数は増え、うめき声は次第に大きく反響し、エナタンは両耳を覆った。
 しまいにはこらえ切れなくなり、エナタンは叫んだ。
「苦しむくらいならなぜ座りこんだんだ!自業自得だ!」
 蝉のように響いていたうめき声がピタっと止んだ。
 静まり返った鍾乳洞で、ホロンは静かに告げた。
「わたしが蹴らなかったら、きみもああなっていた。怠惰の甘い蜜の味は誰でも知っている。それに抗うことが出来る者はわずかだ。きみは人にそんなことが言えるのか?きみの弱点がそこに出ている。」
「弱点?弱点だと?なんだそれは?自業自得のやつにそう言って何が悪い?」
 ホロンは静かにため息をついた。
 エナタンは気がついて言った。
「おまえは一体何者だ?12の門を全てくぐれるというのか?第1の門でさえこれだけの者が足止めをくう。どうしてゆけるというんだ?」
「今、きみは思っただろう?人ではないからだ、と。いや。そうではない。エナタン、わたしはきみと変わらない。自分のためなら今すでにここで眠ろうとし、石になるだろう。だが、きみとの約束を果たすためならどんな門もくぐると決めた。こころにそう決めるから進めるのだ。ひとりならば無理だ。」
「約束?約束などした覚えはない。」
 ホロンは答えず、小さく笑みながら前を指した。
「この川をゆく。」
 そこには地底の川が流れており、岸辺には小さな舟が舫ってあった。
「こんなところにこんな川が・・。」
 ホロンは器用に櫂で舟を操った。
 川は流れるにつれ川幅が大きくなり、水音は大きく響くようになった。
 言葉を交わすにもかき消されるような水音に、エナタンは黙った。
 身は流されていくが、こころは静かに遡っていった。

 貿易商の父と会計士の母の間に生まれた。
 父は仕事でほとんど家におらず、母は生真面目で地味な女性だった。
 他の人々が子供時代はよかったとか、子供の頃に帰りたいというのをよく聞いたが、エナタンにはそういう感情は一切ない。
 光り輝く記憶はなかった。色のないモノクロームの世界を生きてきたような気がする。
 子供の頃から妙に大人びて冷めていた感覚がある。
 子供らしくはしゃぐことはなかったし、未来を夢見ることもなかった。
 エナタンは子供の頃、20歳を過ぎた自分の姿をどうしても想像できなかった。
 生きることがただ苦痛だった。
 生を負うことをどうしてこうも重く感じるのか。
 どうして他の人間のように何もかも忘れて楽しみ、笑うことができないのか。
(忘れることなどできない・・。)
 エナタンはハッと自分の思考に気づいた。
(何を?・・オレにはいったい何があった?生まれてからの記憶にないなら、生まれる前にでも何かがあったというのか?)
 『自業自得』。
 この言葉はエナタンの胸にずっと巣食ってきた言葉だった。  
 人に向かって吐き捨てる時、それは自分に向かって言っているということをエナタンはほんとうはずっと昔から分かっていた。
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焦燥
 それはエナタンのちっぽけな人生にも繰り返し現れてきた。
 誰かと関係を築こうとする度に、それを自ら壊していく。
 幼い頃の記憶もそればかりだった。
 母親がエナタンのために同じ年頃の子供を家に迎え入れた。
 人並みに友達を作らせたかったのだろう。
 だが、エナタンは人に合わせることが出来ない。
 誰かがそばにいて自分の思うようにならない時、エナタンは癇癪を起こしては彼らを追い払い、そして頑ななエナタンは逆に彼らに追われた。
 何人かの子供に囲まれていじめられたことは数え切れなかった。
 だが、その時もエナタンは窮鼠猫を嚼むようにがむしゃらに暴れて手がつけられなかった。
 やがて誰もそばに近寄らなくなった。
 大きくなってからも、エナタンは人の輪の中には入らなかった。
 学生時代を通じて、友人という存在がいるということを経験してこなかった。
 だがそれがないことは、どういうわけか不思議にエナタンの人間観察眼をかえって深く育んだ。
 有り余るエネルギーははけ口を求めた。
 空洞の大きさは、逆に多く言葉を生んだのだ。
 気がついたら小説を書き、エナタンはそこで呼吸していた。
 組織の中で働くことに向かなかったエナタンは、母の会計の仕事を手伝いながら、20代の終わりにミステリーの大賞を受賞することになる。
 そこからさらにひとりで自分の世界を構築していくことに専念するようになった。
 その頃、ヨキに出会った。
 彼は他の誰にも似ていなかった。
「エナタン。きみの担当になれてうれしいよ。きみの書いたものはひとの深奥をつく。オレはずっとそんな小説家の編集になりたかったんだ。それがずっとオレの夢だった。」
 エナタンの、心を許さない冷たい瞳もヨキは意に介さなかった。ヨキはエナタンの作品を心から愛していたのだ。
 ヨキがほんとうに自分の仕事を喜んでいることは、エナタンには敏感に伝わった。
 相変わらずつきあいにくい難しい性格をしていたエナタンだったが、その時初めて人といて楽に呼吸する自分を感じた。
 生まれて初めてのことだった。
 それは親にすら感じなかったものだ。
 だが今までそれをヨキに言ったことはない。

 アレクはエナタンがミステリーの歴史ある賞を受けた時に諸手を上げて自分の編集するミステリー雑誌にエナタンを迎えた。
 だがその持ち上げようも、エナタンがヒットを出さなくなると簡単に翻った。
 エナタンは人の心の裏を読むことに長けていたので当然のこととして初めは意に介さなかった。
 だがある時、アレクは編集部にエナタンを呼んで言った。
「そろそろ大賞を受けた者らしいものでも書いてくれないか?」
「書いている。」
「あんただけ分かってても仕方ないだろう?読むのは一般大衆なんだ。」
「一般大衆がオレに追いつく時まで待てばいいだろう。」
 アレクはイライラと貧乏ゆすりを始めていたが、エナタンを鋭く見つめてこう言った。
「お高くとまるな、何様だと思ってるんだ!おまえがそうやって人を見下す態度だからろくな作品が書けないんだ!」
 エナタンはアレクを殴り倒した。
 当然雑誌の連載は外されるところだったが、どういう訳かそれは先延ばしされた。
 おそらくヨキがなんらかの手を打ったに違いなかった。

 そんなエナタンだがそれでも人を愛そうとしたことはある。フェイが初めてではなかった。
 だが自分の犯しがたい領域に他の存在に踏み込まれることで、いつも我慢ならなくなって終わりが来た。
 それは、焦燥感にも似ていた。
 不幸なことにそれは並み外れていた。
 何か忘れている重大なことを、成し遂げなければならない。そのためには今生を賭けた多大な集中を必要としなければならない。そんな無意識に背負った大きな何かが、エナタンの人生に深く影響していた。
 そしてそれを妨げるものは繰り返し現われてくる。
 だが、妨げるものとの関係をチャラにして自分のそれに向かおうとすればするほど、それから遠ざかってゆくのも感じていた。
 それは増々エナタンの焦燥を煽り、増々他への憎しみを煽った。
 そこへあの燕が走ったのだ。
 それは自分の奥深くから、その忘れていることを運んできたに違いなかった。
 あれはいったいなんだ?
 オレはいったいなにを渇望しているんだ?
 その時、ホロンが叫んだ。
「水をくぐるぞ!」
 記憶の糸を手繰るのは中断された。
 目の前に滝が迫っていた。
 流れはその滝壷に吸い込まれた。
 頭からずぶ濡れになって滝の向こうに出た。
 そこは広々とひらけた湖のようになっていて、ホロンはその岸辺へと舟を寄せていった。
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第2の門
「さあ、上がって。」
 エナタンは寒さに震えながらくしゃみをした。
「畜生!死んでいるならどうして寒さも水の冷たさも感じるんだ!これじゃ生きているのと変わらないじゃないか!」
 ホロンは目を細めた。
「今のが第2の門だ。」
「今度はなんだ?地獄でも凍え死ぬのか?そしてまたさらにその下の地獄へでも落ちるっていうのか?」
 ホロンは低くつぶやいた。
「もうすでに自分の門を開いているな。気がつくがいい。」
 エナタンはホロンが多くを語らず先へと急ぐのを黙って追いかけた。
 人がいた。
 面白くなさそうな顔をしてぶつぶつとつぶやいている。
 何かに文句を言っている事だけは分かった。
 近づいてみてエナタンはある言葉に反応してその男を見た。
「おまえは何様だ。」
 その男が自分の方を向いて言っていると感じた。
 男が牙を向いて突進してくるのをすんでのところでかわした。
「なんの文句がある!」
 男はつばを吐いた。
「お高くとまるな。見下しやがって。」
 掴み掛かって来た。
 エナタンは思わず男を殴った。
 倒れ込む男を見ながら、ハッとした。
(同じ光景を見た・・。)
 その同じ光景で倒れたのは“アレク”だった。
「アレク!?」
 ホロンは叫ぶエナタンの腕を取って、すばやくその男から遠ざかった。
 ホロンはエナタンを引きずりながら、眼を細めてつぶやいた。
「その通り。今の男はアレクだ。アレクのたましいの所在だ。ここは地上とシンクロしている。」
 そして振り返ってエナタンに告げた。
「そして、きみのたましいの所在でもある。」

 岸辺の浜から洞くつに入っていく。
 また人がいた。
 女はやはり眉間にしわを寄せてぶつぶつと何か言っている。
 すれ違おうとした時、女の肩とぶつかった。
 女は形相を変えて叫んだ。
「何しやがる!あたしが歩いてる邪魔をするな!」
 エナタンはかっとなって女を突き飛ばした。
「おまえこそ前を見て歩け!」
 すると女は野獣に豹変した。
 牙を向いて吠え、エナタンを噛み砕こうとした。
 ホロンが間に立った。
 不思議なことにホロンが止めると女はまた再び人の顔をして、ぶつぶつと文句を言いながらあさっての方へと歩いていった。
 ホロンは息を吐いた。
「わかったか?ここは不満の門だ。何を見ても不平不満ばかり言っているとああして牙が育ち、人であることを忘れる。自分の牙も触ってみよ。」
 エナタンはハッとして自分の歯を触った。犬歯のように先が少し尖っていた。
「人であることをやめたなら、もう進むことなどしない。ここで永遠に文句を言って、決して満たされることはない。」
 エナタンは憑き物が落ちたように静かになった。
「触ってみよ。」
 もう一度うながされて自分の歯を触った。
 元にもどっていた。
 少し、分かってきた。
「人間のあらゆる側面がここにはあるというのか?」
 ホロンはうなずいた。
「それがひとつひとつの門なんだな?」
 ホロンはじっとエナタンの瞳を見つめた。
「どこで進むことをやめることになるか。それはその人間を縛る永劫からの鎖だ。だが、きみは行かなければならない。なぜなら人間がこうなったのはきみのせいでもあるからだ。」
 エナタンは雷に打たれたようにホロンの言葉に衝撃を受けた。
「そのことをオレは知っている。なぜだ?」
「行こう。」

 しばらく歩く間にもあちこちで文句を言う人間に出会った。
 文句の的にならないよう気配を消して進んだ。
 エナタンはホロンの背中にうっすら生えている紅いたてがみを見つめながら聞いた。
「どうして野獣のようなあの女を山羊のようなおまえがおとなしくさせることができたんだ?おまえは誰だ?」
 ホロンは振り返るとため息をついた。
「きみは質問が多すぎる・・。第3の門をくぐる心の準備は出来ているのか?言っておくが、くぐる度に心の闇は深くなる。」
 エナタンは黙った。
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宿命
 目の前にその第3の門が聳えていた。
 そこだけ天井が高くなった空間に、見上げんばかりの高さの石の扉が立ち塞がっていた。
 ホロンはその時、自分の腰に差していた短刀を抜き、自らの尻に生える尾を自分で手にすると、すばやく切り取った。
 少しうめいた。
 血が滴った。
「何を!」
「こうしなければここは越せない。」
 エナタンは小さく戦慄した。
 そのホロンの儀式が終わると同時に石の扉は音もなくゆっくりと静かに開いた。
 闇の中に光る目、目、目・・。
「光る者だ!組み敷いてしまえ!」
「畜生!まぶしい!引きずり込め!」
 たくさんの骨と皮ばかりの手がホロンを掴むと引きずり込んだ。
「ホロン!」
 エナタンは悲鳴を上げた。
 骨が軋む音がし、貪り食うような音も闇に響いた。
 エナタンは足がすくみ、膝ががくがくと震えるのを感じていた。
 逃げ出すことも出来ずに立ちすくむ。
 その時、後ろから声がした。
「今のうちに進め!今なら気を逸らせる!ただし急げ!すぐにおまえに気づく。」
「ホロン!」
 エナタンは走った。無我夢中で闇の中をただ前に向かって走った。
 ざわめきが後ろに立ち昇ってきた。
(・・あそこにオレよりもましなやつがいる。おれより不幸にしてやる・・。)
(・・あいつは第4の門へと走るぞ。行かせるもんか。オレはどうせ行けないんだ・・。)
「登れ!」
 いつの間にか前をホロンが走っていた。
 崖のような岩場をホロンに助けられて上へ上へとよじ登った。
 後ろで悲鳴が上がった。
 よじ登ろうとする者を他の者が引きずり落としていた。
 その隙にふたりは天井に開いた小さな穴に潜り込んだ。
 狭い穴を気の遠くなるくらいよじ登って、やっと岩盤が広がっている空間に出た。
 そこでふたりは息をついた。

「・・なんだったんだ?」
「嫉妬だ。自分よりも幸せそうに見える者が許せない。この第4の門をくぐるのは狭き門だ。なぜなら皆がお互いを引きずり下ろそうとしあっているからだ。」
「ホロン。どうして無事だったんだ?オレはてっきり食われてしまったものと・・。」
「尾を切ったことで足りぬ者となった。足りている者への羨望に捕われぬために。」
「足りている者なのか?やつらは光る者と言っていた。」
 ホロンは深い目をした。
 闇の中だというのに、エナタンにはその瞳がありありと見えた。
「エナタン。足りるも足りないもないのだ。だがそれはこうも言える。足りる者がいて、足りない者もいる、と。」
 エナタンは眉を寄せた。意味が分からなかった。
「きみが感じた寒さも、彼らが抱き締めて手放さない執着も、ありありと存在する。そして、それは幻でもある。」
「幻?やはりこれは夢か?」
「これは存在する。そうする意志がある限り。」
「光る者とはなんだ?」
「やがて知るだろう。言葉で捉えるな。」
 ホロンは立ち上がった。
「気を抜くな。ここはもう第4の門の内側だ。」

 気がつくと、じりじりと熱くなってきていた。
 周囲の岩盤にまるで溶岩のように赤いものが滲んでいる。
 息苦しくなってきた。
「進むぞ。」
 だが進むにつれ、足元の岩盤は増々熱くなり、エナタンは呻いた。
「なんだってこんなに熱い?」
 その時、熱い風がエナタンの頬に当たった。
 そちら側を向いてエナタンは叫んだ。
「わあっっ!」
 岩に顔があり、その目は血走り、炎のような息を吐いていたのだ。
 岩々が目を向き、エナタンが通るのを阻もうと迫ってきた。
 岩が叫んだ。
「焼き殺してやる!」
 その時エナタンは岩に足を取られて転んだ。
 熱い息はエナタンの髪や服に火をつけた。
「熱い!助けてくれ!」
 だが、ぐるりと周囲を熱い岩に取り囲まれた。それはほとんど溶岩だった。
「熱い!熱い!」
 炎熱地獄の中にエナタンはいた。
 身を焼かれ、その痛みに絶叫した。
「おまえが憎い!」
「おまえのせいだ!」
 皮膚がめくれ、細胞がチリチリと分解されてゆく阿鼻叫喚の中で、意識が途絶える最後の刹那にエナタンは自分の業の深さに身を焼いていることをようやく悟っていた。
(オレがしたことの報いに焼かれている。焼かれることでこの罪が消えるなら・・。もう・・いい。ここに懺悔しよう。そして滅びよう・・。)
 炎は消えた。
 しんと静まり返る岩盤に横たわるエナタンのそばに、ひざまずくホロンがいた。
「・・初めて懺悔したな。」
「・・火は?彼らは?」
 エナタンはゆっくりと上半身を起こすと、自分の皮膚を確かめた。
「憎しみの炎は懺悔の清水でしか消せない。きみの感じた痛みは、他が感じた痛みだ。それを感じてこなかったろう?それは憎しみを招く。だが憎しみは他ばかりか自らも焼く。これは岩ではない。炭化した憎しみの固まりだ。そういった人間のなれの果てだ。」
 エナタンはうなだれた。
「・・もう終わると思ったのに。憎しみに焼かれて終わってはいけないのか?」
 ホロンは静かな目で言った。
「きみの宿命はそんな甘いものではない。きみはすべて見て、そしてそれで終わるわけにはいかない宿命を背負って生まれたはずだ。そうではなかったか?」
「どれだけの罪を犯したというんだ?どうしてオレが背負わねばならないんだ?誰が決めた!もうたくさんだ!」
 エナタンは立ち上がった。
 そして駆け出した。
「待て!」
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黒い天使
 転げまろびつつ、岩盤を行けるところまで走った。
 とにかく逃げたかった。
 この腹の立つ運命から。
「エナタン!」
「畜生!オレの宿命なぞ誰が決めた!オレはそんなものに捕まりやしない!」
 だが、暗がりの中でエナタンは道を踏み外した。いきなり岩盤が途切れていた。
 その口を開けた空間の底に、溶岩が赤々と煮えたぎってエナタンを迎えた。
「わああああああ!」
 溶岩の直中に身を投げ出された。
 全身を言語を絶する衝撃が襲った。
 すぐに顔面も溶岩の下に飲み込まれた。
 肉体が感じることの出来る最大限の苦しみがエナタンを包み、溶かそうとしていた。
 すぐ横に何かが飛び込んだ。
 ホロンはエナタンを掴むと、さらにその溶岩の奥へと深く潜っていった。
 エナタンは自分の骨まで溶かされていくのを感じながら、少しでも早く自分の意識がなくなることだけを願っていた。
 溶岩流の流れは奥ですぼまっていた。
 その関門のようなところを溶岩とともに流れ出た。
 出た空間で、冷気に一瞬で冷やされて赤い溶岩は黒い粘液質のものに変化し、小高い山の上にぼとぼとと落ちる。
 エナタンとホロンは溶岩がクッションとなって山の上に衝撃も少なく落ち、その斜面を転がり落ちた。
 ほとんど骨と化したエナタンが、それでも苦し気にむせんでいた。
 ホロンはほとんど毛がなくなっていたが、無傷のままその転がり落ちた場所で静かに起き上がると、足をたたんだ。
「来たな。」
 これ以上ないくらいのひんやりとした声が、地に響いた。
「ホロン。よくやってくれた。」
 その声はエナタンにも声をかけた。
「おまえが今骨であろうとするのはわかった。だがそれは必要ない。起きよ。」
 エナタンはその声に起き上がった。
 すぐに、骨であった自分が肉をまとっているのに気づいた。
「・・死ねないという地獄か?しかも苦しみだけは毎回ありありと有る。」
「第5の門を超えた。」
 ホロンが言った。
 目の前にいるのは巨大な天使のような男だった。だが、たったひとつ天使と違うのは、黒い羽根を持っていることだった。
 しかもその羽根はぼろぼろで、飛べそうにはない。
「ようこそ。わたしであるおまえよ。おまえはわたし自身としてわたしの元から飛び立ったわが子。さあ、自らであるわたしを見よ。」
 エナタンはその聳える男を見つめながら意味もなく泣けてきた。
「どうした?」
「おまえは落ちたのだな?」
「そうだ。」
「どうしてか知っている。思い上がったからだ。」
 男の目は妖しく光った。
「思い上がるだと?それは力なき者があるように思い込み、そう振る舞うことだ。わたしは真に力ある者だ。」
 彼が息を吐くたび、そこは凍った。
「やめよ。」
 ホロンが言った。
 男はふと我に返ったように瞳の妖しい光を収めた。
「エナタンに説明せよ。」
 さらにホロンがうながした。
 男は深い息を吐いた。その息は凍っていなかった。
「エナタン。おまえの名は暗喩だ。サタンエナジーから来ている。」
「どういうことだ?」
「サタン。それはわたしの別名だ。」
 エナタンは息を飲み込んだ。
「わたしは天使だった。高い天上界にいた。だが、おまえが言ったようにわたしは落ちた。おまえは知っているはずだ。おまえはわたしだから。」
 その瞬間、エナタンはまっ逆さまに地に落ちる感覚をまざまざと思い出し、絶叫した。
「ああああっっーーっ!」
 目眩がして倒れこんだエナタンをホロンが支えた。
 封印は解けた。
 エナタンの原風景が生々しく展開され始めた。
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